弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている

「弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている」

と、まあいかにも芥川賞作品などでありそうなテーマ、という感じのフレーズです。

可愛がられること、甘えること、すがることへの憎悪、その裏にある我慢や奮闘といったものもありそうなものですが、弱々しさの象徴として、自分の中の弱さの投影、そして破壊というようなものも込められていそうな雰囲気もあります。

他者からの評価というものを別としても、なんだか弱者への愛は自然でありながらどこかしら無理があるような感じがして、どこかしら殺意じみたものを含んでいるような感じの時もあります。

仲間を守り、仲間を傷つけるものを敵視して害意を持つ

本能的に考えると、基本的には仲間を守り、仲間を傷つけるものを敵視して害意を持つという感じになっていますが、「仲間を守り」というのが基本であっても、もっと深いところでは、「劣等種を保存するな」というような、行き過ぎればアドルフ・ヒトラーになってしまうような側面もどこかしらに潜んでいます。

そんな「仲間」に関しても、弱々しければ足手まといになり、強ければ種の保存におけるライバルとなるというジレンマが潜んでいたりします。

「弱き者が弱さを武器に自己都合を叶える」というようなことが起こると、当然に不平を感じたりもします。

では、環境を選べない中、強き者だけが生を謳歌できるのか、というのもまた、不平を感じたりします。

まあだからこそ、完全な社会は未だに実現していないというふうに考えることもできるでしょう。

「弱者への愛」を盲目的に捉えること

このような弱者への愛と殺意は、いかにもニーチェの乞食のようであり、スマートそうに見える「弱者への愛」を盲目的に捉えることは逆に危険です。

「その方が人格者的である」といった程度の解釈は、ニーチェ風に言うと自惚れであり、意識の深いところで歪みが生じてしまうことになりかねません。

世に言う弱者への暴力を単に「考えられない」と言うのは簡単です。「考えられないのではなく、思考実験する頭が無いだけ」という構造になっていることもしばしばです。せめて「なぜそうなるのか」を考えられる頭だけは欲しいところです。

自分が今いる環境であれば想像もできないことであっても、環境が異なればそれらが起こる、というプロセスは、思考をめぐらせれば想定することもできます。

悪いというのは簡単ですが、それだけで防ぐことはできません。

「弱者への愛と殺意」を含め、意識の奥に潜む様々な構造を見抜いた上で、環境や意識的な要因を捉えるというのが理に沿うという感じになります。

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「弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている」への4件のフィードバック

  1. 安部公房も同じようなことを言っていたようです。
    ロリコンというもの、男性が幼い少女を愛しむ心理は、少女が簡単に自分の手によって殺せてしまえる存在だからだと。
    自分でそのすべてを、命さえも支配してしまえる存在である為、愛するのです。
    わたし自身は、愛は究極のところに行けば殺してしまうことになるのかと、ずっと考えています。
    世の中を見渡せば、愛によって生命を殺している人はほんの一握りに感じます。
    ほとんどの人は、愛によってではなく、無関心によって生命を殺し続けているように感じるからです。
    弱者と言えば、人間だけでなく動物たちも当然含まれます。
    この世の大半の人間たちは食肉や毛皮や動物実験や殺処分や娯楽などで動物たちの大量殺戮に関与し続けています。
    そこには、殺意などは存在しません。殺意が在るのは実際に殺す役の人たちであり、消費者たちに在るのは、ひたすらに彼らへの無関心在るのみです。

    『動物虐待をする人間を「考えられない」と言うのは簡単です。「考えられないのではなく、自分も間接的に動物虐待と動物殺戮に関与し続けていると気づく頭が無いだけ」という構造になっている』のです。

    それは洗脳とよく似た構造であることに、わたしは気づきました。
    ですからわたしは、肉食者などに対して、どのようにその洗脳カルト宗教的な洗脳を解いて行くことができるのか?を、学んで行きたいと思っております。

    1. 愛の定義にもよりますが、対外的な愛というよりも自己愛、性愛の範疇に入るでしょう。
      外界の状態を条件にすることは、この心にとって安らぎの条件を増やすことになります。
      そして、他の投稿で触れていますが、殺生に関しては、他の生命体に対する視点の範囲について、いま現実に生きているだけで細菌などを死滅させているというところまで観る必要があります。その他自然界において、本能に組み込まれた形で肉食動物として生きている生命体が存在することも踏まえて検討する必要があります。
      「いま現実に起こっていること」に対して、この意識はどうあるべきか、というところが操作可能であり、また、現実として証明不要の領域になります。
      その部分にのみ着目し、なぜ外界の状態を条件としてしまうのか、その執著の源流や執著がもたらすものを観察してみてください。

  2. 人肉食をし続ける民族からあなたが言った言葉と同じ言葉を言われた時、あなたは納得が行きますか。

    愛は定義できないからと言って、みずからの弱者への殺戮行為を許せますか。

    他に食べ物があっても、人間は生きるために無数の細菌を死滅させているからと言って目の前にいるうさぎを殺して食べますか。

    1. そうした機能が組み込まれているということは、意志選択において自由はなく、生苦からの脱却としてその意図があることは致し方ないと考えますが、この心のこととして苦しみを得るのであれば、他からの攻撃に抗うということはするでしょう。
      それは自発的意志ではなく本能的衝動、そして本能的機能になるからです。
      食物連鎖という構造や実際に生きている肉食動物、そして他人に対しても思うのであれば妄想による傲りです。
      実際に今現実に起こっていることに着目し、無駄な煩いを起こさないようにしてください。
      善悪や他者のことではなく、この心のこととしての不殺生を検討してみてはいかがでしょうか。
      愛の定義の問題よりも、この心のこととして捉えていますよ。

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