小学生当時、藤子不二雄両名、つまり F先生とA先生の関係に最大のあこがれを感じていました。まあその点は今でも変わりありません。
「小学生の時からずっと一緒で、さらにドラえもんやオバQ 、怪物くんを生み出している」
僕の中の理想です。
そんな友だちが欲しいのです。ただ、安定的に続くかは不安で仕方ありません。
その当時でも他のクラスに「クラスの同級生たちよりもっと仲の良い友だち」はいました。
ただ、今のクラスにも4年生くらいの時は毎日遊んだ友だちがいました。しかし彼は僕に投票しませんでした。野球つながりもない中、それでも他の人を選んだのです。
「あの時の毎日は何だったのかな?」
小学生の時、それまでの間は、過去を思い出して思いに耽るということは一度もありませんでした。
なお、小6事件におけるすべての意識の記述は、小学6年生の僕が考えていたことそのものではありません。客観的にはもっと普通に見えていたと思います。
しかし、「ともだち化」の思考等については、自分が意識していない無意識下で、本当にそのようなことを思い、感じていたと思います。
大人になっても友だちは友だちのままですか?
先の「演劇のまねごとの会」のあと、担任の先生に聞きました。
「大人になっても友だちは友だちのままですか?」
「ひとつの学校に一人か二人くらい残ることはあっても、みんな仕事や家庭、引っ越しとかで、直接のつながりは無くなっていくよ」
とリアルな回答をもらいました。
うちの家に、父や祖父を訪ねてやってくる彼らの友人というものを特に見たことがありません。
「仕事や家庭が中心となり、友だちはいずれ消えていく」
それが現実なのかもしれません。
だからこそ、藤子・F・不二雄先生、藤子不二雄A先生に強烈なあこがれがあるのです。
いろいろな思い出を積み上げていって、ずっと友だちでいる。
僕の理想です。
それは、仕事上の戦友のような人であったり、家庭内の長年の関係だったりで近いものは叶うのでしょうが、そうではないただの友だち、それが続いて欲しいと思っていましたし、今でも思っています。
結果的に藤子不二雄両名における「マンガ」のようにある意味「仕事でつながる形」であってでもいいからそうあって欲しいと思います。
藤子不二雄漫画の影響が強すぎるのかもしれません。
その影響下の中で起こった小6事件。
僕は彼らのような理想から遠ざかり、「ともだち化」していきました。
担任の先生にさらに聞きました。
「友だちとして残らないのなら、どうして今仲良くするんですか?」
「まあ今仲良いのはいいじゃないか」
それからは、大人のごまかしが入りました。
―
F先生、A先生、ぼくはどうすればいいの?
もう、人が信用できない。
人を信用できないなら、友だちなんてできない。
一番大切にしたかったものが、大切にできそうにない。
どうすればあなたたちのようになれますか?
―
そうこうしているうち、夏頃にコロコロコミックにおけるドラえもんの連載が終わりました(その後、大長編のみが続きます)。
行っちゃうの?ドラえもん。
僕は何を指針にすればいいの?
藤子不二雄先生。
僕はあなた達に騙されたのですか?
それとも僕がまだ追いついていないだけですか?
本当の友だちはできるのですか?
まだそいつと出会っていないだけですか?
それとも僕は一生できないのですか?
素人騙しのニセモノとして生きていくのですか?
ニセモノが注目され、評価されることで世間を笑えばいいですか?
最後に、「君たちは単に僕に騙されていたんだ」と笑って伝えて、去っていけばいいですか?
僕には自信がありません。
生きていく自信がありません。
もう友だちはできません。
いずれ消え去ると知れば、自分から断ってしまうでしょう。
ニセモノとして生きて何になるのでしょう?
一生モノの友だちが欲しいです。
F先生、A先生、ぼくはどうすればいいですか?
―
そんなことを思う一方、僕は同じクラスの一人の女子、「女神さん」に意識が向いていました。
それは希望であり、また、絶望でした。
つづく
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