定住している人々と自由な人々

定住している人々と自由な人々ということで地元愛についてでも書いていきます。

なんだかんだで毎年毎年いろいろなところに行きますが、どの土地に行ってもそこに地元愛が感じられればその分だけ旅の醍醐味があります。

20代中頃は、周りの大企業に行ったような人たちが「いつまで地元にこだわるんだ?」的なことを自慢げに言っていました。

まあいろいろなところで働いて視野を広げてみるのもいいですが、外国人男性を連れている女性のような「羨ましがられたい」というような感覚にしか思えませんし、ジャンプ派の人間が何かの優位性を持って優越感に浸ろうとしているとしか思えないフシがあります。

そう言えば地域的優越感的の代名詞とも取られている「京都」、特に洛中の人たちですが、そうした洛中の人たちをバッシングしているのは他でもないそうした「優越感に浸りたい人たち」であり、地元京都の洛中の人たちはそもそも争いすらしていないという事実があります。

京都の洛中を代表して

僕は京都生まれ京都育ち京都在住の京男です。京男というからには当然に洛中で生まれ育っています。

厳密な定義で言えば、洛中は御土居の内側ということになっていますが(洛中と言うからには僕も御土居の内側です)、京都人バッシングの記事を見ると「京都は中京区だけだという人もいる」というような意味不明な記事があります。

あえて言っておくと、そうした事を言っている人は素人ですし洛中人でもありません。書いている人も意味がわかっていないはずです。

なぜなら、そうした人たちは、京都の中で高層ビルがある「都会的」なところが中京区だからということを勝手に妄想しているに過ぎないからです。

「京都は中京区だけ」=都会基準で京都を見ている田舎者

仮に京都にいて「京都は中京区だけ」と言おうものなら、田舎者扱いです。

「どうせ地方から京都ブランドに憧れて中京区のマンションにでも引っ越してきた人でしょう」という感じです。

実を言うと中京区には特に文化財も文化発祥の地もあまりなかったりします。そうしたものは御所のある上京区のほうが圧倒的にありますからね。

そうしたわけで「中京区が中心だ」と思っているのは東京基準というか都会基準で京都を見ている人たちです。そうした感覚自体がよそ者の発想なのです。

元々京都市は上京区と下京区だけから始まった

区の概念ができた時、元々京都市は上京区と下京区しかありませんでした。おそらくそれすら知らないのでしょう。

伏見や山科が京都ではないというのは、普通の感覚ですし、これは排他的というよりも、そうした場所にはそうした場所で都とは異なった独自の文化があるはずです。

そうしたものをさておいて地元愛無く京都と同化しようとするのはやめて、地元愛を持ってくださいというのが洛中の感覚です。

洛西は山陰道の宿場町、山科も東海道の宿場町です。伏見は桃山文化・酒造りの文化があります。そうしたものを大切にしないで、大きなものに同化しようとするのはやめましょう、という感覚です。

だから、伏見や山科、洛西等々は京都ではないと言っているにすぎません。

それを優越感だと解釈するのは、自らが優越感に浸りたい嫉妬を持った人間たちです。

地元自体を愛さず、「優越感に浸りたいのにそれができない」というような、そうした雑な人間と同じ空間にいるのが嫌だ、というのが洛中の感覚です。

だから引っ越してきただけでは京都人として認められないのです。

僕たちの地元を優越感のダシにしようとしているだけですし、発想が雑ですから。

雑と洗練

京都の言葉は「いけず」だと言われます。

しかし最近では認知されてきましたが、それは巨大な権力に挟まれた民衆が「どちらに肩入れしているのか」ということを下手に判断されて迫害されないがために出来上がった言語文化です。

そして体験としてメタファー的にコミュニケーションを取ることがよくあります。

つまり表立っての言動には表れない洗練度合いの確認と、洗練への導きがあるのです。

京都では成金の無作法を笑うために祇園に連れて行くというようなことがよくあります。

ちなみに花街にもランクがありますが、そうしたことも知らずに「一見さんお断り」を突破したと思っている人たちにある種恥をかかせるために連れていくということがあります。

つまりいわば雑な人間への懲らしめなのです。

そうしたことをストレートに「お前寒いよ」とは言わずに、自分で気づき、自分で高めるということのきっかけを作ったりしているのです。

人間としての「優越感」の寒さを体験で知ってもらおうという試みです。

本当に人が嫌いだったら無関心でいるはずです。

しかしそれをあえてやる、そこには一種の愛があるはずです。

これは洗練された方法論です。洗練された人間となるように、洗練された方法をもって導いていっているとすら取れるのです。

しかし雑な人間はそれに気付きません。

「バカにされた」

そうして憤慨するだけでしょう。

なぜなら雑だからです。

「私は偉い」と思いたいのにバカにされた、だから怒っているのです。

「私は偉い」という驕りそのものが寒いことをメタファー的に示していることにも気付けません。

なぜなら雑だからです。

もし洗練されていたなら、そうした仕掛け自体にも気付き、それを逆手に取るということもできます。

そうした無意識レベルでの「表面で言語化されないレベル」でのコミュニケーションが京都では出来上がっているのです。

自尊心を求めていることへの戒め

この構造は、優越感や自尊心を高めることを渇望している事自体が「寒い」ということを示しています。

それは驕り高ぶること、優越感や自尊心の高まりを求める事自体がその人をその後苦しめていくことになるということに対する説教的なものでもあります。

「京都人に誉められても真に受けるな」というものがありますが、「誉められて喜ぶ」と言う様はまさにそうした優越感や自尊心の高まりに関するものです。

そうした「ほめる」「ほめられる」という行為に価値を置かず、平常心を持つということを洗練としています。

「ほめられたい」と思い、それを渇望し、周りの気分や価値基準によってそれが叶ったり叶わなかったりする人生か、ほめられても責められても気にも留めず平常心で生きられる人生かというところで後者の落ち着いた人生を選択しているのが京都の文化といったところでしょう。

京都バッシングの前提には「ほめる」という行為や自尊心の高まり自体が正しいというものが潜んでいます。

しかしその裏には、自尊心への渇望という煩悩が潜んでいます。

洛中の人に排他的に扱われた時

「京都が嫌いだ」という人は、おそらくそうした自尊心の渇望があるのだと思います。

そうした雑な人間にとやかく言われても、何とも思いません。

何とも思わない境地自体が京都の文化なのですから。

それを「優越感」と解釈すること自体が「雑」であり、洛中の人間自体はそんなことをすら議題に上げていないということが本当のところです。特に優越感的なプライドを持っているわけではなく平常心です。

京都、特に洛中の人に排他的に扱われた時は、自分自身が自尊心への渇望や、京都を踏み台にした優越感への渇望を持っていなかったか確認してみましょう。

見つめるべきは己の心であり、それを言動で示唆するのが洛中の文化です。それが心底わかれば、一代でも京都人として扱われるようになるでしょう。

現代人の皮肉

定住している人々と自由な人々 曙光 562

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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