人の気持ちというものは変化の度合いによって幸福感のようなものを感じるようにできています。
なので、意図としてマイナスからゼロへという変化とそれに対する期待で楽しんでいるフシがあります。
自我によるやみつきゲームのようなものです。
こうなりたいと思いつつも、実は気持ちの奥底ではそうなってほしくないと思っていたりするわけです。いつものパターン(マイナスからゼロの安らぎ+期待)や本質的に求めているものと遠ざかってしまうためです。
知人の始業の方に聞きましたが、そこの事務所のスタッフの方で、資格取得を目指すも毎年あと一点で取得ならずとか、今年こそはというときに限って直前に自転車で転んで大怪我で受験できずというような人がいたようです。
さすがに「わざとですね」としか思えません。
でも資格を取ってそこの事務所に所属するかどうかはわかりませんが、士業の専門家として活躍したいからこそ、実務を学ぶために事務員さんをしているわけですし受験もしているわけです。
ものすごい矛盾を感じますが、わざとそうしているとしか思えません。
「一番叶えたいことは、一番叶えたくないこと」というわかりやすい例です。
変化を求めているのでは?
となりますが、
「期待」にやみつきなんです。
期待、落胆、期待という変化の波に、やみつきなんです。
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この変化はゼロからプラスという変化でもいいですが、マイナスからゼロの方が親しみやすいため、マイナスになる出来事を経験することになります。
かといって、穏やかなゼロが続いても変化がないためつまらなく感じます。
しかしこれが自我の罠です。
「ああ、幸せの最先端」
というのが事実なのですが、あれこれ思考で理由をつけてマイナスに持っていこうとします。
これが幸福感と幸福の違いのようなものです。
生きていること、時間を感じることというのは、単に五蘊により心が変化を捉えることです。
なので変化というものは生の実感になるわけです。
生の実感を得たい。
誰が?
アイツがです。
というような感じになります。
