国家をできるだけ少なく!

われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。 曙光 179 文末

ある時から、消費が自分を高めてくれることには限界があることに気づきました。

つまり物やサービスを消費することで得られる面には限界があり、それらが自分を満たしてくれる程度には限界があるのだということをです。

そして、「社会のため」という大義名分は、非常に遠回りで、疲れるだけだということを感じました。

社会においてもっとも危険な洗脳の一つは、義務教育課程で教える側にいる人たちの思想です。

そのタイプの人達も、もともとは異なった個人的な考えを持っていたと思いますが、組織に属する以上どうしてもその思想の方にシフトせざるを得ないのだと思います。

この傾向は、企業勤めでも同じです。

様々な諦めとともに

働き出す前には持っていた「物事を純粋に捉える力」も、その企業や組織に属してそこで生きていくからにはと、様々な諦めとともにどんどん失われていきます。

勤め人時代に学んだこともたくさんあると思いますが、やはり今思い返すと、自分は多少狂っていたと思います。

でもその狂いの中で、本質的な自分も確実に残っており、その違和感から企業を飛び出して会社を作るという行動をとりました。

しかしながらこの構造は、元々の自分の中にあった意識が「企業の中から飛び出す」という因子を持っていたからです。

もしかしたらそういう動機、そういう原因となる因子をまったくもっていない人もいるのかもしれません。

その人達の中では本当に「正しい」意見

世の中ではいろいろな人が異なったアドバイスをしてくれるため、逆に混乱することもありますが、その人達の中では本当に正しい意見であることは間違いありません。

「その会社で出世したいならば」という前提をもった意見なら、確かにどんな変な意見でも、本当に正しい意見なのだと思います。

ただしそれは本質的には正しくありません。

資本家側と労働者側の争いはいつの時代でもありますが、それぞれその立場に立つと正しい意見です。

しかし、どちらも絶対的な正しさなど持ち得るはずはありません。あくまである立場からみた相対的な正しさにしかなりえないのです。

なぜなら、そういった都合とか効率というものを考えたときには、純粋に精神的で形而上学的であることはありえないからです。

牛飼いのダニヤ

スッタニパータに出てくる「牛飼いのダニヤ」なんかはわかりやすいですが、「私には財産がある」という経済社会では当然に喜ばしいとされる状態についてブッダが語るシーンがあります。

「私には財産がある。だから私は幸せなんだ」というダニヤに対して「私には財産が無いから憂いがない」とブッダは返します。

一般的に幸せとされている状態には財産が必要だ、まあ単純にお金が必要だ言われていますが、お金と幸せはあまり関係がありません。

どのようなものでも良い面と悪い面があります。

彼女がいれば、いろいろな経験ができる反面、彼女の行動について憂いが生じることもあるでしょう。

物を所有することで、物がもたらしてくれる効用もありつつ、その裏側で、維持管理に関する労力、失うことへの恐怖などが生じてしまいます。

いつも幸福そうに見える

ストレスさえなければ、幸せでいられる

何だか充実した人生には、いろいろなものが必要だと世間では説かれていますが、「ストレスがない状態」を目指していることに気づいている人はあまりいません。

人はいわゆるストレスさえなければ、幸せでいられます。

で、それを解消するためにお金が必要だと思っているのが大半です。

「何処かに旅行に行きたい」

というのは、旅行に行ってストレスを解消したいと言うのが本音です。

でも、本当に何のストレスもなければ、旅行に行きたいとも思いません。そういう衝動がやってこないのです。

で、生存本能として明日の不安があるから、それがストレスになり、安心を得たいからお金があることを確認したい、お金が入ってくるという予測が欲しいということです。

ではそういった不安がなくなったらどうなるでしょうか。

何も必要がありません。

こうしたことにたどり着くためには、経済とか社会という側面から考えていたのでは到底不可能です。

万人とか最大多数が効率的に幸せになるという功利主義みたいな考えをしていたのでは、政治については語れても、永久に「不安がない」というような最高の状態にはなりません。

不安があってもなくても一緒

不安がないというよりは、不安があってもなくても一緒という感じです。

不安があると人はその不安をなくそうとします。人どころか全ての生き物は生存本能があるためそういう構造になっています。

不安がないと思い込もうとすることは不可能です。

そして、少なからず体からの信号として「何時間か経ったら水分が足りなくなるぞ」というようなものもやってきます。

だから本能的な不安、そしてそれから生じる欲や怒りはある意味で無くなることはありません。

ただ、それはあくまで体の都合なのだということに気づいてみましょう。

体が意識に信号を送ってきているだけだという感じです。

ただそれだけのことじゃないですか。

国家をできるだけ少なく! 曙光 179

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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