商人文化の根本思想

個人的な競争が古代ギリシア人にとって精髄であり、戦争や、勝利や法がローマ人にとって精髄であったのと同じように、商業が精髄である社会の文化が成立しつつあるのを、われわれは今日幾重にも見る。商人は一切ものを作ることなしに評価し、しかも彼自身の個人的な需要に応じてではなく、消費者の需要に応じて評価することを心得ている。「誰がどれだけこれを消費するのか?」が、彼の問題中の問題である。 曙光 175 前半

商人文化の根本思想ということで、商人とそれ以外の人との根本的な商いに対する考え方の違いや商人文化や商業を嫌う人たちについてでも書いていきましょう。

「二流以下の人ほど『アートか商業か』ということを言う」と、アートだけで食べている人が言っていました。

言いたいことはわかりますが、そうした分類はあまり意味を成さないというようなことのようです。

まあおそらくそうでしょう。

アートで食べれずに、学校で教鞭をとっている人がそんなことを学生に吹き込む傾向にある、とも言っていました。

「金銭的価値で計ろうとすることが下品だ」ということらしいのですが、その気持ちは大切ながらも、それに逃げてはいけない、と言っていました。

まあ確かに営利目的で芸術や文化の分野のことを取り扱い「売るために」と躍起になるというのは変だと思いますが、基本的に人がそのアート作品にお金を出してくれたということは、その買ってくれる人の心を動かしたということになります。

そのあたりを無視しているような感じがしてなりません。

商人文化や商業を嫌う人たち

なぜこんな話になったか、それは、やたらと商業を嫌う芸大生が多いような印象があったので、「その根本原因は何でしょうか?」と、聞いたところ、そんな答えが返ってきました。

なぜ金銭を汚く思うのでしょうか。

金銭はニュートラルです。

良くも悪くもありません。

もし良いとか悪いとかいうことを思うのであれば、それはお金に変な属性をつけているだけ、ということになりましょう。

音楽で言えば、たくさんCDが売れたから名曲というわけでもないのですが、「アンチ商業だ」とする割に「音楽で食おうとする」行動は、どう説明するのでしょうか。

そういう矛盾を無意識で感じているはずだと思います。

だからこそ、変に飲み屋で同じような類の人達が集まってそんなことを語るのでしょう。

僕も、かなり小さい時から音楽漬けでした。

しかしながら、やはり本格的に音楽が好きになったのは、自分で自発的に楽器を触るようになってからです。

習い事としてやっていた練習は楽しくもなんともありませんでした。

そこで20歳過ぎ位の時に、音楽について考えたことがあります。

本当に好きな曲は自分で書けばいい、そして、それを聴かせる相手は、社会じゃなくてもいい、といったことです。

まあ、絵が好きなだけならば、ただ絵を描けばいい、ということです。

それで「食おう」と思うのならば、意識が180度くらい変わる必要があります。

お金を払って楽しんでいる間は、どんなにそれが創作的であっても、ただの消費です。

消費者と供給者

消費者と供給者はまるで違います。

普通、供給者側に立った場合は、売り先である消費者に合わせなければならない、そのことで自分の信念が捻じ曲げられる、と、思いがちです。

確かにそんな方法論で、確率論的に商売をしているような企業もあります。しかし世のすべての企業がそんな企業ではありません。

むしろ、自分の信念を押し付けがましいくらいに出して、そのことが評価されている企業もたくさんあります。

商業への偏見

商業的な仕事に身を置いたとしても、ある程度しっかりやらないと、バイト程度の経済参加であれば、そういった企業の存在や特色の面は見えてきません。

「何かをお金に変える」ということは、簡単といえば簡単です。

しかし簡単だとわかるまでに様々な彷徨いをするかもしれません。

消費者がいくら「創造的だ」と主張しても

「そうですか、そうですね」

で終わるのが関の山です。

まずは、商業への偏見をどうにかすること、それから、おそらくその先が見えてきます。

本当に政治を変えたければ、群れてデモなんかせずに「議席を取ること」です。

お笑いスターになりたければ、観客ゼロのステージに立つよりも、何かで賞をとることに意識を集中させることです。もちろん、それはお笑いで「食おう」と思う場合です。

お金をもらうということ

「何かをお金に変える」ということは、簡単といえば簡単なのですが、お金をもらうということはすごいことです。

相手が有り余るほどの資産を持つ人ならば別かもしれませんが、世の中は労働による所得しかない人がほとんどです。

自分の労働の対価である金銭と交換するということは、根源を考えれば、「エネルギーを渡す」とか「せっかく動いて得た食料と交換する」くらいのことです。

そう考えると、すごいことです。

人が労働と交換しようと思う気持ちが起こるほどの作品、ということをどう思っているのでしょうか。

お金をくれる人の気持ち

お金をくれる人の気持ちになったことがあるのでしょうか。

意識が消費者であるかぎり、そのすごさはわからないでしょう。

商業嫌いの人は、よく原価10円のものを1000円で売っていることに対して、「990円もぼったくっている」と考えます。しかしそれは早急です。

原価10円のものを目の前まで持ってくるのには、いくらかかるでしょうか。

それを保存する場所はどうでしょうか。販売するにあたり、人が必要ならば、その人はボランティアで販売員として仕事をしてくれるでしょうか。

その商品がこの世にあることを教えてくれたのは誰でしょうか。

売れないかもしれないリスクを負いながら

売れないかもしれないリスクを負いながら、それでも商品として置いてくれていることについてはどう思うでしょうか。

それを売るという行為が完了するまでにはたくさんのプロセスが必要になります。

アートであるならば、金銭的価値をつけてはいけない、そう思うなら、誰にも売ろうとせずに、内輪で楽しむことです。

「いいものを作れば勝手に売れる」というのは、物を売ったことのない消費者の意見です。

少なくとも商業を下品だとは思わないことです。

なぜなら、「アート」として自己満足している「ただの消費行動」よりは、幾分創造的で、本能に則した行為なのですから。

曙光 175

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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