哲学の道の黄昏ということで、昨日行ったばかりの哲学の道について触れながら、道行く人を見ながら感じたようなことについてでも書いていきましょう(ついでに、たった今の出来事ですが、なぜか、「みちゆくひと」と打っても通行人としか変換が出ません)。
このシーズン、哲学の道は桜吹雪の大乱舞という感じなので、人でいっぱいです。外国人だらけで、地元の人はほとんどいないような感じでしたが、想像よりは人が多くなかったので、程よく散歩することができました。なお、哲学の道はホタルスポットでも有名だったりします。桜もいいですが、ユキヤナギを筆頭に様々な花が咲き誇っていました。
哲学の道の由来
哲学の道の由来は、もちろん西田幾多郎氏ですが、まあこの道を散歩しながら哲学のことをよく考えていたという感じです。「絶対無」とか「絶対矛盾的自己同一論」の人ですね。
そうした哲学における散歩の風習、哲学における「散歩派」の人たちは、西田幾多郎氏に限らず、古くからたくさんいます。
歴代の哲学者たちはかなりの確率で「散歩派」
アリストテレスは、ペリパトス派、逍遙学派(しょうようがくは)、遭遇学派、道通学派などと呼ばれ、歩きながら考えたり講義をしていました。カントもルソーもキェルケゴールも散歩マニアです。
歩きながら考えるというだけの人もいますし、単に休憩的に散歩に行った時に限ってひらめくということを経験則で知っていたから歩いていたという人もいれば、歩きながら弟子に教えるという人もいるといったように人によってタイプはバラバラですが、つまるところ歴代の哲学者たちはかなりの確率で「散歩派」だったということです。
道行く人々
という僕もかなりの確率で昼夜問わず近所や京都市内を歩いていますが、歩くと頭がスッキリする上に足のコリもほぐれていくので散歩には重宝しています。
世間的に見ると平日昼間から散歩をするなど、仕事をサボっているように感じられてしまうかも知れませんが、そうした間でも無意識で仕事をしています。
さて、散歩をしていると、いろいろな人とすれ違ったりします。
その度に色々な思いが巡ってくるというのも面白いですし、人でなくとも色々な物に触れるだけで何かしら普段とは違う世界が広がったりします。
黄昏時に
で、哲学の道を歩いていると、大半の人はもちろん観光客で、しかも団体という感じですが、稀に男性が一人でやってきて、しゃがみこんで黄昏を眺めているという感じに出くわしたりします。
哲学の道でそんな感じの人を見ると、実際に学者かどうかという問題ではなく、全員が哲学者に見えてきます。
「今何を感じているんだろうなぁ」
そんなことを思うと、何かわかりませんが感慨深い気持ちになったりします。
団体客が自撮り棒で写真を撮りまくっている中、そうした中にちらっとそういう人がいるだけで、なんだか哲学の道の醍醐味が増してきます。
桜舞い散る黄昏 帰り時の公園にて
いつも、近くの公園の桜を見てから、哲学の道に向かうのですが、帰りにもその公園に寄りました。
公園では女子中学生と思しき人達が、レジャーシートを広げてお花見をしていました。
その奥では、独りのおばあさんが枝垂れた桜の枝先を掌に乗せて春を感じていました。
心の底から今を楽しみ、声高らかに大声で遊ぶ中学生に「どうかそのままでいて欲しい」と願いつつも、「理はその奥にいるおばあさんへと導くのだ」というようなコントラストを感じ、互いの美しさを感じました。
そして、そのコントラストと「桜舞い散る黄昏」が妙に心に響きました。
良い春のひとときでした。
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