「吠えたける悪魔」はどこにいるかというと、結局は自分の内側にいます。
その構造を分解して考えればすぐに見破ることができます。
例えば、僕が父の中にいる「吠えたける悪魔」を浴びて何かしらの嫌な思いをしたとすれば、その嫌な思いという情報、「父をはじめとした家族との関係性において生じた何かしらのもの」がその本体になるわけです。
人を通じてやってきたからと言って、その人自身が悪魔であるわけではありません。そしてその「悪しき情報」や現象を呼び起こしたものは、その奥にあるその人の中の情報、俗っぽく言うならば傷です。
ある人のある行動は、その人の中の「その場の最適解としての選択」の結果です。
そしてそうした選択がなされた要因は、その人の記憶と、その人の状態や物理環境を含めた現在の状況です。
ということで、少し高度な技を使って自我から「吠えたける悪魔」を炙り出しました。
これは「犯人探し」ではありません。
犯人探しをして「吠えたける悪魔」の全貌を把握したところで、その先がありません。つまり「姿を見ただけ」という感じで、対処することはできません。ただ、何となく構造を捉えるというのは大切です。
高度な技と言ってもさほど難しいことではありません。
関係性によって生じている自我の中から、「吠えたける悪魔」に関係する人を抽出します。
そして、その人との記憶の中で傷ついたこと、その人がそれまでの人生で傷つけられたであろうことを感じて癒やすだけです。
その人がその言動を取ったのは、その人がかつて何かに傷ついたり歪んだ固定観念を保持していて囚われていたからです。
自分が傷つけられたことの奥には、それらの情報がくっついています。
癒やすというのは、その全情報に光を当てたり温めたり滑らかにしたりする程度です。または抽出して、別次元に送り込めばいいだけです。
主従関係を作る必要がありますが、消滅させるのではなく承認して擬人化することもできます。その情報は情報として、使える時に使うということです。普通はその方が敵視して消滅させようと無理に抵抗するよりもうまくいきます。
むしろそうしたものを持っていないと、それに近い状況にある人の気持ちなどわかりません。ということは、共感力も養われなければ、問題解決の手助けもできません。さらに言葉にも説得力が生まれません。
なので、そうした情報を残しておくこと自体は、さほど問題ではなく、むしろプラスに働かせることもできるわけです。
ただ、認めるのはいいですが、そうしたものと対等に付き合うと下に引っ張られてしまいます。
取り扱いの基本は
「それがなんじゃい」
です。
つまり囚われないということですね。
「気になる」ということは、囚われているということです。
下に引っ張られているということです。
つまり悪魔に力を持たせてしまうということです。
人生で何にも傷つけられていないという人はいないはずです。
今は重要視していないというだけで、「何か嫌だなぁ」と思った程度のことすらなかったということは考えられません。
では、対処として悪魔に下に引っ張られないために、つまり囚われないためにはどうすれば良いのでしょうか?
「家族だから」という「甘え」
ここでおばあちゃんとの思い出に移ろうと思います。
僕は十代の終わりごろ、母方のおばあちゃんの家に二ヶ月ほど住んでいたことがあります。おばあちゃんと二人暮らしです。
ある夕方、小腹が減った僕は冷蔵庫を開けました。
「牧場の朝」があったのですが残りは一つでした。
これが実家なら迷わず食べていましたが、おばあちゃんが毎朝食べているので、ここで食べてしまっては、明日の朝おばあちゃんが困るだろうと思い、食べることを諦めました。
というようなことを夜おばあちゃんに話すと、家族というものに対する甘えの話をしてくれました。
なぜ、うまくいかない家族はうまくいかないのか、それは他人が施してくれたのであれば感謝するようなことを「家族だから」と当たり前だと思う「甘え」が生ずるからだという話でした。
元々一緒には住んでいないおばあちゃんと僕という関係性だからこそ多少の他人行儀が生まれ、理性が働いたということです。
この甘えというか傲りのようなものが、囚われを生みます。
例えば、他人に毎月何十万円ももらっていた場合、どうやってお返しをするか頭を悩ませるレベルに感じるはずです。しかし、相手が家族となるとそういうことを思う人はあまりいません。
例えば、子どもが熱を出した時に、代わりに迎えに行って病院に連れて行ってくれて、食事まで用意してくれて、自分の仕事が終わるまで預かってくれる他人がいたら、どうやってお返しをするか頭を悩ませるはずです。年に何度も何度もそんなことをしてもらっていては、頭が上がらない、どうやってお返しをすればいいのかすら見当もつかない、と思うはずです。しかし、相手が家族となるとそれを何とも思っていない人もたくさんいます。
近所の人にケーキをもらうと「今度お返しをしよう」と思います。しかし、それが家族ならなかなか思いません。
友だちが家のトイレの掃除をしてくれたら、せめてジュースくらいは渡そうと思ったりします。しかし家族なら何とも思いません。
その傲りが、人を断絶します。
他人は、もらってばかりでは気が悪いと思ってお礼を言ってくれますし、お礼をしてくれます。
他人の方が居心地の良い存在になります。
家族との間に、よりコントラストが生まれます。
家族が醜悪な存在に見えます。
これこそが悪魔です。
「囚われない」ということは、この甘えのような傲りを手放すことです。
つまり、甘えが生じるのであれば、家族を「他人」と捉え直すことです。「他者」であることは間違いありません。
これを抽象化すると
「それがなんじゃい」
です。
例えば、「妻というものはこういうものだろう。何なんだサボりやがって」という囚われが起こるとします。
「妻?それがなんじゃい」
ということになります。
妻や家族というものへの自我の中の固定観念や直近の文脈の領域を出るということです。
まず甘えや囚われの領域を脱して、「他人の関係性」になり、自分が理性を生じさせて大きくならないと、相手にも理性が生じません。
一種の悪魔祓い
「吠えたける悪魔」は悪魔の一つの類型です。
で、それを内側に保持しながら、下に引っ張られずにその領域を脱すると「この悪魔のパターンの取り扱い方」を得ることになります。
「その悪魔の全貌はわかっているもののそれに引っ張られることがない」という状態になると「脱し方」を人に伝えることができるようになります。
すると、もし仮観の世界だったとして、それに関係する他人がそれぞれの一つの存在として「ある」とするならば、この自分の自我を起点として、祓いを振り撒くことになります。
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この内側にある「吠えたける悪魔」を祓うのは、四無量心のひとつ「捨(ウベッカー、upekkhā)」です。
他人と家族で扱いが変わるのは一種の「差別」です。社会の中での役割、責任においては、差があるのは問題ではありません。
しかし、こころの上で他人と家族で「感謝と当たり前を分け隔てる」のは甘えであり傲りであり歪みです。
家族や親しき者だからという甘え、そして家族や親しき者だからといって相手に甘えを生じさせるものを消滅させるものは、すべてを平等に観るこころ、捨(ウベッカー)です。
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