詩人的な性格の人々を特徴づけるもの、しかし危険であるものは、彼らが余すところのない想像力である。起こるであろうこと、起こるかもしれないころを先取りし、先取りして享楽し、先取りしてまねき、そして待ちかねた出来事と行為の瞬間になると、もう疲れているような想像力である。 曙光 254
だいたいの事に予想がつくようになると、だんだん何事も楽しくなくなっていきます。想像を超えるものを求めて、もっと刺激的なものを、と求め続けても、それにはキリがありません。そのうち「まあこんなもんだろう」という感覚ばかりばっかりになっていきます。慣れが生じる、予測が立ってしまう、といった感じでしょう。
そんな大人を見ておもんないグループは、「オレは違う!」と、「カッコイイ大人」を目指し、「いい店を知っている」というようなカッコのつけ方をしていくようになります。
しかし、それはラーメン通のようなものと同じで、うまいものが作れるわけでもなし、またまた店を作ったわけでもなく、消費者として知っているだけです。それが一体どうしたというのでしょうか。
ストレス無く楽しみを与えてくれ
以前、と言っても去年のことですが、友人から電話がかかってきたかと思うと、「鱒釣りに行こう」という、釣りの誘いの電話でした。
個人的に釣りはとっくにやめています。キャッチ・アンド・リリースと言っても、針で傷ついたり、外来種だからという理由で、殺されていく魚がかわいそうに思えたからです。遊びの感覚で、快楽のために他の生き物を苦しめてはいけません。
その時には「鱒釣り」を断ったのですが、その理由は先の「不傷害」といった理由の他にもう一つ、そのマス釣り自体が、放流された養殖のマスだったからという部分が少なからずありました。
迷いたくない、でも、楽しみたい
一種の残念さがありました。友人がそのようなおもんないグループのような大人になっていくのが、たまらなく嫌でした。
それは、楽しみをすべて「お金で買う」という思考に変わっている証だったからです。予想のつくこと、想像の通りのことを行って、その場の体験として楽しみたい、というだけのものだったからです。
迷い、試行錯誤し、時には道草をして、ぶらりぶらりすればいいのです。所詮遊びですから。
しかし、その試行錯誤のプロセスをすっ飛ばして、釣れた瞬間だけを楽しもうという発想が、どうもイオンモール組のように思えて寒気がしました。
冒険にはガイドブックはあってもいいですが、必要ではありません。ガイドブックに載っている所に周るだけなら、タクシーか観光バスででも周ればいいのです。しかし、そういった一種のストレスのない旅は、今ひとつ楽しめません。
言いつけを無視して冒険したあの時
小学生の時に、自転車に乗るようになって、「子供だけで学区外に行ってはいけない」という言いつけを無視して冒険したあの時の方が、数倍も数十倍も楽しかったような感覚があります。
ガイドブックに載っている場所を生で観る、といってもそんなに楽しくありません。実際にその場所に行っても、ものの数分だけ見てすぐに帰るのがオチですから。
最近では、SNSシェアするためだけに行くような人もいるでしょう。写真家でもないのに写真を撮ることが目的になっているような気がします。
人に見せびらかすことが目的なら、おそらく旅は、旅人に何ももたらしてくれないでしょう。
先取りする人々 曙光 254
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