自分たちが演じる歴史的人物は演技をしているときの自分たちの気分と実際に同じであったと錯覚して、偉大な俳優たちは幸福になる。― しかし彼らはその点でひどくまちがっている。彼らが千里眼的な能力と詐称したがるその模倣力と推測力は、まさしく、態度や、声音や、眼つきや、一般に外面的なものを説明するのに十分な深さにしか到達しない。すなわち彼らから素早く摑み取られるのは、偉大な英雄や、政治家や、軍人や、野心家や、嫉妬する人間や、絶望する人間などの魂の影なのである。彼らはこの魂の近くにまでは突き進むが、その対象の精神の中までは突入しない。 曙光 324 前半
俳優の心理学ということで、設定された人物を演じるにあたって必要となる人格の捉え方についてでも書いていきましょう。
どれだけ模倣しても、精神の深みにまでは到達することはなかなかありません。
その理由の一つは、どれだけ上っ面を模倣しても、ある定義付けなどに相違があるからであり、端的には浅い考えのままわかったつもりになっている、というものです。
現象として現れた表情なども、その感情のタイプまでは模倣することができるかもしれませんが、なぜその表情になったのかをよくよく観察してみると、ある固定観念との相違から、結果として現れた感情が「嫉妬」だったというようなものであり、どういった固定観念を保持して、感情が起こるとき目の前に起こった現象をどのように思考的に解釈したのか、という所にまでは踏み込んでいないでしょう。
歴史上の人物の模倣
特に歴史上の人物などであれば、社会学的解釈からその人物の人格を想定しなければなりません。と言っても、織田信長はキリスト教をどのように捉えていたのか、というところは、織田信長流のキリスト教解釈を徹底して考えなければなりません。
その時にイエスキリストや日本で取り扱われるクリスマスくらいしか知らなければ、まず織田信長の気持ちはわからないでしょう。
そうなると、キリスト教の全体像から、教団による解釈の違い、当時の日本での解釈や他の宗教などとの関係性などを、社会学的にだけでなく、「どういうものとして捉えられていたか」を知る必要があります。それ以前にどのような性格でどのように育ったのかも大きく影響しています。
しかしながら、そんなことをしているのは史学の学者くらいであり、その研究だけで一生が終わってしまうでしょう。織田信長の気持ちを知るには日本史的な研究が必要ですが、根本をたどると神学、新約聖書学の分野にまで手を出さねばなりません。
完璧に模倣しているつもりでも、それは観客側の「想像の範囲」の人物であり、「まあそんなところだろう」という、一切事実に基づかない推測の世界です。
ましてその観客側が、同じように考えが浅ければ、猿同士が猿真似で盛り上がっているのと同じこと。
そんなものに無駄に価値をつけてはいけません。
これが存命の人物であっても同じことです。その人と同じ思考を持とうとすると、かなり深いところまで定義のすり合わせをしなければなりません。
表層と背景
そのような感じで、一人の人物であってもその表層として捉えられているものだけを模倣するだけでは薄っぺらいものとなり、その背景にあるものを捉えておかないとどんどん設定が歪んでいきます。
舞台化されるものの原作がフィクションであっても、その作品の作者の意図とは異なったものになることはしばしばあります。
たとえそれがフィクションであっても、根本の根本は捻じ曲げてはいけないと思っています。原作者が存命の時は「君は僕の作品を理解していない」というクレームが来たりもしますが、没後はそうしたご意見をいただくことができません。
それを防ぐためには、演じる人、そして監督する人などの各人が、原作者と同じとまではいかなくても深いところまでその作品の本質を理解している必要があるという感じになりましょう。
そして作品を心底理解しようと思えば、単に読み耽るだけでなく、その背景を調べ尽くすくらいでないと叶いません。単に妄想で表層を取り繕うだけで済むわけではないという感じになります。
そのあたりがプロとアマチュアの差ということになりましょう。
俳優の心理学 曙光 324
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