AI利用がどんどん盛んになり「人間味」の価値が高まっています。スマートフォン普及の時よりさらに高まっています。
しかしねぇ…
それは昔から変わらないはずなのですが、どうも「偏り」が生じているような気もします。
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近年出てくる言葉でかなり違和感のある言葉があります。
それは「可処分時間」です。
カスの1分1秒がそんなに大事とは思わんがねぇ…
というようなことを思っているのか、思っていないのかは内緒です。
さて、人間味と感情です。
結局は、AI回答で解決できない「隙間」のような、一種の斜めの角度がこれからの世の中で求められているわけですが、まず、AIにだけ偏るとなぜどうにもならないのか、というところについて触れていこうと思います。
思考と感情という両輪
情報は溢れていて、必要な情報はすぐに手に入る時代です。
その中で大切になるのは、その必要な情報自体を見つけようという意図です。
そして、情報は思考の材料です。
しかし、思考だけでは、人は実際の行動をなかなか起こしません。
欲か怒りかはわかりませんが、ひとまず感情というもう一つの車輪が揃って、ようやく人は動き出すというような構造があります。
なのでAIは思考の方に寄るので、偏りが生じやすくなります。
本来は両輪すら要らない
ちなみに基本はそのような感じですが、実は思考と感情という両輪を外すとどうなるかというと、フルオートマモードです。
普通は、思考と感情という両輪を使って地面を走って進むという感じですが、その両方を手放すと「空を飛んで進む」という用な感じの無意識モードになります。
思考優位と感情優位
人によって、思考優位と感情優位の人がいます。
また、同じ人でも状態によってどちらかに傾いている時もあります。
ただ、本来は、どちらもあまりあてにならないというのが本当のところです。
ただ、思考優位の人は感情優位の人を見る時に「バカ」にしか見えませんし、その逆も然りです。
明らかに論理破綻している感情優位の人ですら、思考優位の人のことを「バカだ」と言ったりしていませんか?
理屈の上では、感情優位の人の方が完全にバカなのですが、盗人にも三分の理の如し、まあ論理だけで環境を整えても「で、生きてて何が楽しいの?」という視点から見ると、確かにそのとおりな面もあったりするわけです。
本来は、どちらも不要ですが、日常はどちらにも偏らない方が良いですね。
「感情に働きかけろ」とよく言われる理由
思考面、論理面からの説得はスマートなので、みんなやっているんです。
どの環境でもある程度のレベルで、いけるところまではそれで行こうとしているはずです。
物を売るにしても、堕落した生徒を抱える教育機関でも、まあたいていは家庭内でもです。
論理的説得はスマートなので、取り組みやすいんです。
なので、どこでもやっているので、不足している「感情」の方に働きかけろと言われたりするわけです。
おそらくこの構造は、大昔から変わっていません。
「人は感情で物事を決めている」ということは大昔から、色々な哲学者たちですら言っています。
しかし、感情だけで決めているわけではありません。まったく思考を使っていないわけではありません。ただ、感情という出力があって「行動」に繋がっているという構造になっているだけです。
わかっていても、できない
つまり、結局は、「頭でわかっていても、行動することができない」ということが、至るところで起こっていて、それが人を苦しめていたりするわけです。
そしてたいていは、「もうどうしようもない」というマイナスの方の動機で行動に繋がったりするわけです。
で、そうしたマイナスの方の感情、動機で人を動かそうとして、たまにうまくいくので、嘆いたり脅したりする人がいるわけです。
また、ものすごく強い感情があっても、思考の方でグググググっとブレーキがかかることもあります。
思考が、全く反対の感情を作り出して、打ち消すような場合ですね。
しかしその場合は、思考を完全に整理するとスルスルスルっとブレーキが外れることがあります。
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たいていどちらかが欠けています。
自分が得意な方の力を強めようとばかりしてしまいます。
すなわち、思考優位の人は、より一層考え、感情優位の人はより感情をブーストしようとします。
しかしながら、「ほぼ一輪車」並のアンバランスな自転車では走りにくいように、得意な方ばかりに力を入れても、よりバランスが崩れるだけになったりもします。
思考優位の人は頑なになり、感情優位の人はヒステリーを起こします。
ちょっと不得意な方を見てみてもよいのではないかと思います。
ただ、本来は両方手放すのが一番です。
しかしながら、そう言っては面白くないかもしれないので、私事について少し触れてみようと思います。
厳密には感情とは少し違うので、何とも言えませんが、基本に置いているのは「慈悲喜捨」です。しかし、それでは少しリアリティがなく面白くないかもしれないので、あえて「感情」に着目して、無理やり抽出するとどのようなものが出てくるのかという点について見ていきましょう。
僕の中の「感情」は、一種の愛のようなものの時もあります。
しかし、根底にあるのは、そのような美しいものではありません。
人格の3/4は20世紀少年の「ともだち」です。
ということで、行動決定にかかる基本的感情は「創造と破壊」です。
一応創造が先で、それに基づいて破壊したいという感情が生まれます。
ということで、人生屈指のイラつきについて少し触れておきましょう。
「もしかして癒やされたがってる?」
18歳の時の「宗教勧誘彼女」と23歳の時に再会したときのことです。
単に、それまで付き合っていた彼女と別れたので、その子と付き合っている間に制限されていたものを取っ払うという意味で、「色々な人と再会してみよう」ということを思い、再会した時のことです。
「宗教勧誘元彼女」は、財布を持ってきませんでした。
そんなことを平気でするというか、実は持っていても、財布を持ってくるのを忘れたなどと口走れるほど、売女的低俗な人間になったかということでガッカリしたのですが、その時についでに言われた一言が忘れられません。
「もしかして癒やされたがってる?」
答えは、NOです。
仮に癒やされたいと思っていたとして、本質的に僕を癒せるのは動物と自然だけであり、そうした意図があるなら、インコ、うさぎに会いに行きます。そうでなくても、馬に乗りに行くでしょう(その当時は馬に乗ったことはありませんでした)。
「メスごときに私を癒せると思っているのか?」
これが僕の本音です。
女が僕を癒やすことはできませんし、まして癒やされたいなどと思ったことは一度もありません。
もし可能であるのならば、それは理解者のおばあさんや母方の祖母クラスの母性のみであって、若い女が僕を癒せると思うなど、つけあがるな、と思ってしまいました。
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ということで、そうした時に起こる感情は、「怒り」であり、破壊です。
「つけあがるな」という怒りであり、「つけあがる感性」を破壊する、というような感情が、僕のエネルギーになります。
ちなみにそれから連絡は一切取っていません。
友人の結婚式などで会うことはありましたが、個別に連絡したことはありません。
そうした時に起きた破壊衝動は、どのような行動につながるのかと言うと、「その程度の女が、気安く声をかけようなどという気が起こらないほど、社会において高みに向かう」というような行動です。
