二度の忍耐

「それによって君は人間に苦痛を与える。」― 私はそれを知っている。そしてまた、私はそのために二重に― 第一に、彼らの憂苦に対する同情によって、第二に彼らが私に返報するであろう復讐によって― 苦しまなければならないことも知っている。しかし、それにもかかわらず私のようなやり方をするのもやはり必要である。 曙光 467

世の中には同情する割に何もしないという人がいます。もちろん「かわいそうだなぁ」とか「大変そうだなぁ」などと同情したからといって、何かをする義務はありません。

しかし、ある動機から「同情」はするのに、解決策などには何の手助けもしないというタイプがいます。

解決策の行動として「何もできないタイプ」のこともありますが、できることであっても意図的にやらないという感じです。

しかしながら「同情」だけはする、というタイプの人がいます。

「いい人だと思われたい」から同情する

では、なぜ同情だけはするのでしょうか?

その動機にはある程度の種類がありますが、もっともわかりやすいのは「いい人だと思われたい」というものです。「善人だと思われたい」という他人からの評価欲しさというものもありますが、「私は優しい人間だ」と思い込むための自己説得のために、という側面もあります。

そしてその「いい人」の基準は、世間的な目が原因になっています。一方でその基準が追々同情する人を苦しめることになります。

「寒い中ご苦労!」

管理者というものは「ねぎらいの言葉をかけなさい」と上に指導されるのでしょうか、安易に「寒い中ご苦労!」と、部下に声をかけたりします。

以前、管理者マニュアルというものを見せてもらったことがあります。

勤め人の頃に中間管理職の上司が、「研修で配られたものだ」と、笑いながら見せてくれたものです。

「部下を気にかけよう」

そういったタイプの項目がありました。事例のようなものも載っており、「こういった細かい気配りが数字につながります」という事が書いてありました。

その上司とは、「部下の相談に乗ろう」という項目にそって、無駄にセリフを棒読みしながらロープレをして遊んでいました。

そんな中、やはりどこの管理者も「寒い中ご苦労!」と声をかけようという旨を研修で習うからか、本当は「ご苦労」とすら思ってもいないのにねぎらいかのような声をかけるという行動をしています。

言葉だけでなんとかなるのはB層

たまに言葉と心(意識)が一致しなくても構わないという人がいますが、言葉だけでなんとかなるのは、相手が鈍感で新興宗教にはまりやすいB層の場合です。

心の底から感謝などはしていなくても「感謝しています」といえば、それで良いという感じです。自分の心と行動が噛み合っていなくても、それを受け取った相手はその言葉に喜ぶという感じで説かれたりもします。そして、言葉と心に齟齬があれば、やがて言葉の方に心が寄り添ってくるというようなやつです。

自己マインドコントロール的な感じでいくならば、多少宗教臭くてもそれでいいですが、下手をするとこの構造は「相手を見下している」としか思えません。

本心なのか建前なのか

ある程度の感性をもった人であれば、それが本心なのか建前なのか、また、本心であっても、その奥の動機がいかなるものかまで読み取れるはずです。

そういった言葉と意識の不一致を感じた時、逆効果になることは言うまでもありません。

「寒い中ご苦労!」といいながら、その管理者が公用車でゴルフに出かけて行ったらどうでしょうか。

確かにゴルフと言っても、商談を兼ねている可能性はもちろんあります。しかし、常にそうとは限りません。内輪だけで行くこともあるでしょう。

いずれにしても、単なる遊びではないかもしれませんが、使われる側としては、「寒い中ご苦労!」ということを言われない方がマシかもしれません。

なぜならそれは、優越感から出た言葉のように感じてしまう可能性があるからです。

そういったやりとりをしてしまうと、相対的な優越感を主張されたように感じます。

そして優越感を押し付けられれば、受け取った側は相対的に劣等感を感じることになります。

諦めのための年功序列、体育会系洗脳

そうなると、その劣等感をなんとかするために、つまり排除の欲求である怒りが生じる可能性があります。従業員みんなに怒りを持たれてしまっては、生産性など上がるはずがありません。

それを封じ込めるための「上司だから仕方ない」という諦めのための年功序列、体育会系洗脳だということです。

しかし、使われる側も、嫌ならやめればいいことです。人にぶら下がっておきながら厚かましいことを言ってはいけません。

問題があるとすれば、社長と従業員との間に挟まれている管理職の人の態度でしょう。社長や会社のことは好きでも直属の上司が嫌いだというケースはよくあります。

社長の仕事は、そういった管理職をどう取り扱うかというところです。組織が大きくなると、全てに目が届くことはありません。

そこでマニュアル化されるということになりますが、そのマニュアルの字面だけ追うと、「怒りを買うだけ」といった、とんでもないことになることがあるでしょう。

二度の忍耐 曙光 467


優越感を主張された場合、下手をすると受け取った側は相対的に劣等感を感じることになります。しかし、劣等感を根拠とした行動、そしてその動機はロクなものではありません。相手の自尊心補償行為に付き合う必要はありませんし、劣等感自体が虚像だということを見抜いていきましょう。

劣等感の克服と劣等コンプレックスの解消

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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