歴史家は、実際に起ったことに関わり合わず、推定された数々の出来事とだけ関わり合う。なぜなら、後者だけが影響を及ぼしたのであるから。(中略) ― 底の知れない現実という深い霧の上の幻影の、絶え間ない産出と懐胎である。あらゆる歴史家は、想像の中以外には決して存在しなかった事物について物語るのである。 曙光 307 抜粋
「事実だ事実だ」と言いながら、世間での事実は全然事実ではありません。事後的解釈であり、推定しその場で事実らしきものを意識の中で構築しているだけで事実ではありません。だから蓋然性というものでひとまず決定しておこうということになっています。
これは刑法の勉強の時にも出てきますね。得たい結果は「ひとまずどうするか」です。事実の存在を云々は、哲学者などが妄想にとらわれている時だけで結構、その事実が確定しなければ何もできないというのなら、「やったもん勝ち」になってしまいます。
そんな事実はありません
以前、某大学の先生から面白い話を聞きました。
講義室の中で、からあげを食べている女学生がいたので、注意すると、
「食べてません」
と返してきたそうです。
「今食べてたじゃないか」
「今は食べていません。そんな事実はありません」
と、哲学者のようなことを言ってきたそうです。
たしかに既に胃袋に入っており、今現在食べているわけではありません。
「食べていたという事実的認識」は、すでに過去の記憶となっています。
この場合、事実の有無でどう取り扱うか、ということになった場合は、どんなことをやっても、何ら判断もできないことになります。
そういう時は、事実基準で判断してはいけません。
この場合は、「力関係」によって、全てが決定します。
権力による強制が可能であり、その執行に関する権限も権力側にしかありません。
その場合はある種の権力をもった側が解釈基準を定めることになります。
「その解釈基準がおかしい」と、いくらごねても勝てません。
蓋然性と推測
この場合、講義室でからあげを食べていたという蓋然性だけを採用するという基準を「単位認定の権限を持つ側」が一方的に行使することができます。
これをさらに上の権限を持つものに訴えかけても、その人は現場にもおらず、現場にいたとしても、先と同じように「一瞬で消える事実らしきもの」になってしまうので、その人も結局、情報だけを頼りに蓋然性と推測で何とか判断するしかありません。
そこで「わざわざからあげを食べていたという『でっちあげ』はしないだろう」という推測などが採用されます。
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僕は、こうした蓋然性や推測、証拠の問題に頭を悩ませていた時期があります。「証拠って一体何だ?」と思い「支払った証拠」の問題を考えに考え、コンビニに買い物にすら行けなかった日もあります。
振り返って考えてみるとこうした蓋然性や推測、証拠に関する哲学的、論理的問題の発端は、「ダウンタウンのごっつええ感じ」のコント「料金所」から起こったのかもしれないと思ったりすることもあります。
料金を払ったにも関わらず、「もらってないよ」と言われたらどう返せば良いのか、というような問題です。
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他人との関係の中で事実というものは何らあてになりません。すべて情報だけでやりとりされており、ただのイメージの世界です。
事実を他人と共有することは、不可能です。
事実だ事実だと言いながら、即時的な反応か、意識による解釈しか受け取ることができず、それを意思表示として発信した時点で、意識的な情報としてしか機能し得ない、という属性しか無いのですから。
事実!そうだ虚構の事実! 曙光 307
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