敵を殺そうとする者は、ほかならぬこのことによって、自分の心の中で敵を永遠なものにしないかどうか、とくと考えてみるがよい。 曙光 406
先ほどは闘争心について書きましたが、考えてみれば今まで敵というのも相応にたくさんいました。
そして大体の敵の特徴は、「少し年上の体育会系」でした。
十代の時は、普通に過ごしていてもなぜだか「なめている」という判定をされ、時々絡まれたりもしたものです(勘違いの証明)。
少し年上の体育会系というものは、勝手にこちらを下だと判断した前提でやってきては、やたらと従え、立てろ的な空気を出してきます。ロクでもありません。
それでも十代の時は学校という空間の特性上、顔を合わさざるを得ませんでした。
会いたくもないのに会ってしまう、絡みたくないのに絡まれてしまうということで怨憎会苦の代表例です。
といっても、それに屈するわけでもなく、十代の頃は何度か返り討ちにしたこともありました。そういうわけで中学生の時はカバンに鉄板が入っていたわけです。
特に1つ上の人によく絡まれました。代わりに6つくらい上の人にはよく好かれました。
何かスポーツやられてたんですか?
なんだかんだで僕は、体育会系上がりの人に会うとだいたい十中八九、「何かスポーツやられてたんですか?」といわれるような体格をしています。
Z会の象徴、太ももに限って言えば、63センチあります。しみけんさんと同じくらいです。
おそらくボーイスカウトで山登りばかりしてたことが影響しているのでしょう。
で、おそらくですが、そういう人たちの心理としては、「体育会系かどうか確かめる」というものと「年齢はいくつか」ということを確かめた上で、心理的に優位に立とうとしているのでしょう。
「やっていません」
と答えると、がっかりする人、というより「うーん…」となる人が多いのも、単に共通の話題が見つからなかったからというわけでもなく、「体育会系ならわかってるよな?」的な流れにしたいという動機が潜んでいるはずです。
同じフィールドでは戦わない
先日少し(といってもなんだかんだで大幅に)追記した「ほんの少し感傷的な昼下がり」の「同じフィールドで生きる必要はない」という感じで、僕は20代中頃から「相手に力を認めず同じフィールドでは戦わない」ということをずっとしています。
何となくの路線としては、中学生の時からそのような感じです。
小学校高学年の頃から中学一年生にかけてジャンプ派というものが現れます(ジャンプ派とコロコロ派「性に合わない」)。
少年ジャンプがカッコイイと思い、コロコロコミック読者をバカにするような層が現れだすのです。そして、概ねそのような人は体育会系になります。
ただ、そうした人たちに対してミニ四駆の面白さを主張しても、それを子供扱いして鼻で笑うのがせいぜいです。
だから相手にしてはいけないということをそれくらいの時期に悟りました。
しかしそこから流れが変わってしまいます。
Z会の夜明けです。
Z会の夜明け
第二次性徴期と言われる、毛が生えてくる時期から○玉に主導権を奪われだしてしまいます。
つまり、「サッカーかミニ四駆か、どちらが女子にモテるのか?」ということが検討材料になってしまうのです。
僕たち世代であれば、「バスケットボールかストリートファイターIIか、どちらが女子にモテるのか?」という感じになります。
そして文化系寄りの人たちは、圧倒的に不利な立場にいるということを目の当たりにせざるを得ないのです。
アピールする場がない
それは、「アピールする場がない」ということです。
体育会系は、部活動でその勇姿を見てもらうことができます。
ところが「ぷよぷよ」の上手さや、ギターの上手さは、それなりの環境、つまり誰かの家にでも女子を呼び寄せないとアピールすることすらできないのです。
そうなると、まず企画をして誘うというところから始めなければなりません。ハードルが高すぎるのです。
そういうわけで、スポーツ系が人気になってしまうのです。
校庭で走っているだけでアピールできますから。
ということで、それほど好きでもないにもかかわらず、なぜかひとまずスポーツ系を選んでしまうことになるのです。
もちろんそんなことは誤りです。心底好きなことに熱中している方が自分も楽しいですし、人からも評価されます。ところが○玉の影響上、「モテ」が検討材料に入り、本心とは違う生き方を選んでしまうのです。
そうした影響が、悟りを壊してしまうということの一例でした。
不滅にする 曙光 406
最終更新日: