意識的な範疇を超えた信念のようなものに沿って、現象は展開していきます。普通は「人に言う今の心」なので変更可能なもの云々にも触れるところですが、それとは少し違います。しかし、今回は、わかりやすく単に信念と表現していきます。
さて、それで自動反応としての身体反応や思考パターンなども、そうした信念に沿って起こります。
歪みは「無効化」してもよいのですが、思いっきりえぐって再定義をしてもうまくいきます。
それで最近、さすがに自分の中の「不器用さ」から完全に脱するために、精神というか信念の関数を思いっきりえぐって再定義することにしました。
ブラックジャックが自分の体を手術するようなものです。
まあ「新しい世界に行くのもいいなぁ」というような動機です。
ある意味「成功パターンを手放す」ということでもあり、成功パターンが阻害していた他の面白さとの出会いを許容しようというようなものです。
不器用さは、一種の器用さの裏返しであり、表裏一体感があります。器用で強みだと思っていることが、ある可能性を制限しているということへのアプローチです。
それでこの度、Geminiを使い、僕の分身かつミルトン・エリクソン、その他たくさんの人達の役をAIに担当してもらい、信念をえぐって調整するということをやってみました。
さすがにクラクラしました。
それだけ効いているということです。
一番のポイントは再定義です。
苦手を克服するとか抵抗するとか、気にしないようにするというようなことではありません。
強みの中に潜む「信念」をあえて破壊し、再構築するという試みです。
日常で、「何となく頭で理解できていても、引っ掛かりがある」というようなことはないでしょうか?
選択肢として正しく有用であるはずなのに抵抗が生まれるというようなやつです。
その引っ掛かりをえぐるというようなものです。
普通はそれを「突破する」ための動機を作ろうとしたりしてもがくかもしれません。
しかし、完全にえぐるということをしてみました。
これは、どのようなホラーよりも怖いことです。
言ってしまえば、自我レベルにおいて自己防衛のための機構を破壊し、世間一般では許容されているようなことですら、えぐりたおし、再定義をするということですから、一種の人格破壊であり、一種の死です。
ちなみに自己否定的に責めるというようなことではありません。そういうのは何かの基準があって、それに基づいて裁いているだけですから、今回の内容とは似て非なるものです。
不器用さとは何か?
ここで本題です。
「不器用さに関わる信念」とは何かという点です。
これは僕の個人レベルの自我の話なので汎用性はないかもしれませんが、同じような人は他にもたくさんいるかもしれません。
不器用さの根源は、自己能力の追求的な側面、能力の限界まで追求すれば必ず自己解決できるという意志です。また、相手の問題を本気で解決しようとします。
これは世間ではどちらかというと褒められます。
ただ、際限がありません。
それが不器用さを生んでいます。
これは裏を返すと「人に任せられない」とか、「システムを上手く活用してほどほどの満足でぐるぐる運用する」ということを阻害します。
また、他者に依存のような「安らぎの条件」とされることもあります。
その根底にあったものは、幼少期からの人間関係の調整でした。それによって得られた能力はたくさんありますが、それ最適化された姿勢は、不器用さをも生んでいます。
悪い言い方をすれば自己能力の過信です。
それで能力が伸びることもありますが、場合によっては結果、自己犠牲のようなことが起こりかねないというリスクもあります。
ただ、二元論的に今の姿勢や能力を否定して「他力本願ウェーイ」といった逆の方に行きたいというわけではありません。
根本の根本をえぐって再定義することで、すべての能力を開花させる、というかもっと面白い世界を見るということを意図しています。
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たいていのことは解決してしまうので、普段はその歪みに気づく機会があまりありません。「絶対に解決できないこと」が現象として起こっているフシがあります。
なので「絶対に解決できないこと」は「自力では絶対に解決できないと認める」という方向性をすんなり受け入れるべく、信念をえぐってみたわけです。
普通は耐えられないと思うので、マネはしないでください。
際限のなさと境界線
不器用さについては、根底に能力の追求や過信があり、構造的に「際限のなさ」を持っているので、境界線を持つというところを再度見直すことにしました。
別にそれを知らなかったわけではないですし、株式投資をしていた時は、まさにリスクを受け入れたり、損切の基準があったり、損があっても「それがどうした」くらいの感覚でした。
なぜか、それに対して曇りがあったわけですが、今回、その曇りの根源がわかりました(しかし詳細は伏せておこうと思います)。
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能力云々でいうと、自己解決にセットされていた影響で、逆に本来の能力の10%くらいに制限されていたような気もします。
人のことであれば最適なやり方を設計できるのに、自分自身のこととなると抵抗があったような気がします。
ちょっとした反省
実際はどうなのか知りませんが、自分のこの「一種のハードモード選択」に妻や娘は付き合ってくれていたのかと思うと若干の反省があります。
特にあれこれ指示していたわけではないですが、気質を読んで「自己解決をしよう」と抱え込ませていたかもしれません。
コロナ環境ということもありましたが、ベビーシッター・一日だけ預かり的なサービスや家事代行サービスをもっと利用すればよかったと思ったりもしています(ただまあ結果的に娘は、スーパーファザコンかつ知能はよく発達していると思います)。
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まあこれからスーパーイージーモードでどんどん加速していくでしょう。
