一切の期待を手放して命がけで逃げる

一切の期待を手放して命がけで逃げる、逃げるなら本気で逃げるということをしてみるとよいのではないかと思う時があります。

逃げると言っても何かしら期待を持っている時は本気で逃げてはいません。

本気で逃げるとどうなるのかというと、そのうち意識が「なんでも来い」というような方向に変わります。

しかし、「意識がそうした方向に変わったら改めて取り組もう」などという期待はしてはいけないという格好になっています。

先にそれを期待して、ひとまず逃げるというのは少し違うということです。

それでもうまくいくことはありますが、期待を握っている分だけうまくいかないこともあります。

「逃げる」と言うと、手前に義務のような観念があります。

しかしながら完全に自由に考えた場合、生きていく上で義務などというものはありません。なお、三大欲求は義務というよりも生存本能であり、ここで言う義務とはそれ以外の社会性を帯びたような義務です。

一度くらい全てに対して完全に「知らん!」という感じになってみるというのも良いのではないでしょうか。

酒を飲むとそのようなことをつぶやく人がいますが、できればシラフでそこまでいっていただきたいものです。

ちなみに

「期待したらあかんのかいな?」

というレベルでキレるように「知らん」と逃げるという感じでもいい場合があります。

「期待してはダメなのだ」ということ、そうした思考等々に対して、そこからもある意味逃げているわけです。

まあ言ってしまえば毎度のごとくになりますが「思いを切る」ということになります。

生きていて一番無駄なもの、一番の敵は「無駄な思考」です。

「こうやった方がいいかな、ああやると失敗するかな、おう、こっちの方が合理的じゃないかな…」

というものを含めて無駄な思考です。

行動を含めて現象を堰き止めていますから。

そうした思考自体が楽しいのならばいいですが、楽しくないのならばそれは無駄な思考です。

同語反復的になりますが、その思考が楽しい場合は、その思考を楽しんでいますから「思考を楽しむ時間」であるだけです。

でも楽しくないなら無駄な思考です。

寝ても寝ても体調が悪い時は、何かに期待をしています。

誰もいない深海に沈むように、一切の期待を手放して、徹底的に逃げてください。

「学校や職場に行かない、行けない」という程度は、本気の逃げではありません。

そういうのは、たいてい何かしら普通の生活のようなもの、それを手に入れるのにもうちょっと条件を緩和して欲しいというような期待がどこかに潜んでいます。

たまに人生に絶望したなどと言って人を傷つけたりする人がいます。

あれは何かに期待しています。

自分は狂うほどプレッシャーを感じているんだ、だれかわかってくれ、そして助けてくれという期待です。

何にプレッシャーを感じていたのか?

それは「こういう条件を満たしていないと人として価値がない」という圧力です。

「仕事をするなら8時間以上働かなければならない」という誰かが決めたような前提、そうでないなら自力で仕事内容を考えなければならないという前提等々です。

そういう圧力のようなものを感じていると、親の遺した不動産収入でのほほんと過ごしている人を見ると害意が生まれます。

まあ実際にそういうのは資本主義という空間の中で生まれた差別です。

ちなみに僕は絵本版「おさるのジョージ」や「バーバパパ」などはどうかと思うところがあります。

読んでみると、ある種夢があるようにも見えますが、「役に立たないのならば出ていけ」「みんなから表彰されるような存在なら家に住んでよい。オレも自慢できるからな」というような資本主義丸出しの内容です。それがアメリカにおける「教育」なのでしょう。

誰かが稼がないと社会を回していけないという部分があるためある程度理解できますが、それと人の価値は別物です。

別物のはずですが、世間はそうした物差しで判断します。

ただ、僕はそうしたもので友達が友達でなくなってしまうことが心の底から嫌です。

時にお父さんやお母さんが狂ってしまうこともあります。自分との関係性がおかしくなってしまうことがあります。

自分もそうした空間や期待から逃げて、相手も一切の期待を手放して逃げたら、小学生の時のような関係に戻ることができます。

小学生の時の何の疑問もなかった友達との関係、何の観念の影響もなかった親子の関係、それがそこにあります。

Category:miscellaneous notes 雑記

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