われわれは一体隣人について、彼の限界― 彼がそれでもってわれわれにいわば印づけ、印象づけるもののことを私は考えているのだが― 以外の何ものを把握するだろうか?われわれは彼について、われわれを変化させること― その原因は彼であるが、以外の何ものをも把握しない。 曙光 118 前半
「一体隣人」という字を見て「いっぽんでもニンジン」を思い出してしましました。「動物園の帰り道」で出てきた「およげたいやきくん」のB面ですね。
うさぎの場合は隣人ではなく隣兎ということになるのでしょうか。
そういえば最近、養子のウサギに人参をあげる時に「いっぽんでもニンジン、二足でもサンダル!」と、この歌を歌いながらあげることにしています。具合が悪くなった時に、薬を服用するためのにんじんジュース用に買ったものの、ジュース以外にも小さく切ってちょろちょろあげていました。
今のところこの歌を歌い始めると「にんじんか!」と反応しますが、歌詞付きです。おいおいメロディだけでも反応するのか、ということを教育しています。
ということで、いきなり歌詞のあるところから始めるのではなく、鼻歌でイントロを歌いながら養子のうさぎに近づき、「いっぽんでもニンジン、二足でもサンダル!」と歌い初めの瞬間にんじんジュースをあげたりしています。
さて、隣人愛、隣人愛、とはいうものの、なぜ人限定なのでしょうか?
黄金律(マタイによる福音書7章)については以前に触れましたが、なぜ人に限定なのでしょうか。
愛の対象を人に限定するから話がおかしくなります。そこで「人とはなにか」という議論になり、人の定義の問題になり、人でない場合は黄金律が適用されない、というような論理上の欠陥があります。
人に限定したけちくさい考えなど捨てて、心を持ったあらゆる生き物に対して慈しみを。
一体隣人とは何だろう! 曙光 118
この投稿を公開してから、ある日「いっぽんでもニンジン」の歌詞を思い出せなくなり、「いっぽんでもニンジン、二足でもサンダル…」と繰り返していましたが、「よつぶでもごましお」までは良かったものの「5は?」で詰まってしまいました、「六羽でも七面鳥」以降は思い出せたのですが、「5」だけ思い出せません。
帰ってからもう一度動画を見て「ごだいでもロケット」ということを再確認しました。
うーん覚えにくい。。。
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