あまり不足の方に目を向けるのもどうかと思いますが、現代に最も不足しているものはロックとコメディだと思っています。
最近、久々にビジュアルバムを少しだけ観ました。あとごっつの「サニーさん」などを観たりしています。僕達世代は小学校時代から「ごっつ漬け」であり、笑いの基礎部分の大半はごっつでできています。
やはり小中学生の頃に日曜日の夜八時になると必ず何か鬱屈したものがリセットされるような安心感がありました。
そういう安心感は、ここ数年どころではなく20年以上ありません。
ロックとコメディは方向性が異なりそうなものですが、共通項があります。それは押さえつけられたもの、違和感などへの芸術的昇華というか破壊です。
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「流しそうめんしに、いらっしゃい!」とばかり言っていると、例外なく妻に無視されます。そして娘が真似をし始めます。
娘はもちろん僕が「おなべに~」というと、「もりいのくずきりぽっかぽか」と返してくれます。
妻にはあまり良くない目で見られます。
それでいいんです。
それがいいんです。
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ロックか、ロックではないかという面に関しては人それぞれに定義があるでしょうか、僕個人の定義はシンプルです。
楽曲の構成としてロック調かどうかという部分で判断はしません。
基準はただひとつ。
「モテようとしているかしていないか」だけです。
モテようとしている時点で本当の破壊ではないですから。
カッコをつけるのはいいんです。
でも、モテようとしてる場合は、ロックではありません。
ロックは、基本的には圧力に対する、対抗というか破壊です。
「権力者である私に媚を売れば、楽に良い目を見れる」というような構造に対して、う◯こを投げてアンサーとするのがロックです。
これは脳筋体育教師からの儒教的圧力、お金で支配しようとする輩、というものがわかりやすいですが、異性からの「モテちらつかせ」も同様です。
「私に媚を売れば、いい目を見ることができるぞ」という構造なのですから、それは「モテ」の構造にもつながるわけです。
そうしたものに「これが答えだ」と、う◯こを投げるのがロックです。
そしてコメディも基本的にハイレベルのものはこの構造を持っています。
本来やっていることは、支配してこようとするもの、圧力をかけてくるものに対して、う◯こを投げるということなのですが、音楽やコントという表現で直接的ではないので、相手は歯ぎしりするしかない、という風刺的な昇華要素があります(サニーさんは直接的すぎますが…)。
こんな事を言うのもなんですが、僕は中学生の時に「隣の学区に住んでいるのに車通勤をしている偉そうな女体育教師」の車のナンバープレートを工具で外してドブに捨てたことがあります。
その人がいい人なら、その行為は個人的にも面白くないんです。
偉そうで、体育会系のくせに近距離を車通勤しているから、個人的には面白かったんです。
さんざん今まで無駄に走ったりしていたくせに、歩きでも来れる距離を車で来ていたから面白いんです。
そういうのを自分より弱そうな人に対してするのは面白くありません。なので、いじめのようなものは本当に嫌いなんです。
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ただ、究極のコメディの類型の一つに、世間的には弱い側ながらも頭がオカシイからこそ許されていたり周りが気を使っているというものへの昇華があります。
こんな事を言うのもなんですが、ちょっと何かしらの障害があるレベルの人が無駄に強気だったりする場合があります。
でも、相手はそういう人だからと直接的には何もされずに、周りがケツを拭いていたりすることがあります。
そういうものに対する破壊です。
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先の女体育教師もそのタイプだったのかなと思うことがあります。
生徒に対して「おまえら」と呼びかけるレベルですから常人ではありません。
採用した人の顔が見てみたいですね。
まあ同じような脳筋なのでしょう。
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そういうわけで近年は、本質的なロックとコメディが不足しています。
「叩くことで稼ぐ」という方法論が一般化したからでしょうか。
ただ、もし叩くとしても、叩き方が面白くないんです。
ヒロイズム的というか、ギムキョというか、モテないやつの僻み感がすごいですから。
おそらくそういう違和感が僕に
「流しそうめんしに、いらっしゃい!」
と呟かせているのだと思います。
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「流しそうめんしに、いらっしゃい!」という僕をありがたくスルーしてくれる妻は、某野球選手が写った某チラシを持ってきて「これ、AIで古谷実系にできる?」などと言ってきます。
だからこそ夫婦なんですね。