キリスト教徒の底意

次のことが第一世紀のキリスト教徒のごく普通の底意ではなかったろうか。「罪がないと思いこむよりも、罪があると思いこむ方がよい。というのは、はなはだ強力な裁判官がどんな気持ちでいるのか、よく分からないから。― しかし裁判官は罪を意識している者ばかり見つけたいと思っているのではないかと気がかりでならない!彼は大きな力をもっているので、自分の面前の人間が正しいということを認めるよりも、罪人を赦す方がたやすいであろう。」 曙光 74 前半

キリスト教徒の底意(そこい)ということで、正しいと認めるよりも赦す方がたやすい、というところは面白いですね。

底意(そこい)とは

なお、底意(そこい)とは、 内心に秘めている考え方や意図、心の奥にもっている考えという感じです。ということで、「下心」や「本音」くらいの意味になります。音訓にまつわる漢字の読みのルールから言えば「ていい」になりそうですが、「そこい」です。いわゆる湯桶(ゆとう)読みになります。

基本ルールに沿えば、底意も「そこごころ」か「ていい」のはずです。ところが「ていい」と打っても限界で「低意」くらいしか出ません。

基本的に熟語は音訓を揃えて読むはずですが、重箱(じゅうばこ)読みや湯桶読みなどなど、こういう時の漢字の熟語はややこしくて仕方ありません。

さて、世の中はけっこう曖昧に動いています。本当の厳密を突き詰めれば、その証明だけでかなりの時間を費やすどころか、結果的に証明できないという自体にまで陥ってしまうからです。

そういえば先ほどカレーを食べながら、目の前のペットボトルを見て、ふと考えたことがありますので、それについて書いていきましょう。

正しさの証明は特に必要がない

目の間にペットボトルがあったわけですが、例えばこのドリンクは500ml入っているという表記がしてあります。

もし499mlしか入っていなかったとすれば、法律上は債務不履行みたいになるでしょう。

500ml入っているということだったので、僕は150円払った、でも実際は499mlしか入っていなかった、1ml分がまだ履行されていない。

という感じです。

正確な観測と許容

でも考えてみると、本当に500ml入っているかどうかを確かめようと思うと、蓋を開けて他の容器に移し替えたりなどなどが必要になったりします。

そうなるとほんの僅かな量ですが蒸発してしまい容量が変わるということが起こります。まあ容器に水滴が残ったりするので完全に容器から移し替えることも難しいですが。

また、飲む前と飲み干してからの空容器を測り比べてもいいのですが、純水でもありませんし重さが体積とイコールになるというわけでもありません。

また、重さで比較しようと思っても、持った時点で皮脂とかホコリとかそんなものがくっついてしまいます。

ということで、観測しようと思っても、観測という事をした時点で少し状態が変わってしまうということで、元の状態を正確に測ることはできないという感じになってしまいます。

ということで、もしかしたらクレームに備えて502mlくらいは入っているのかもしれませんが、表記は500mlということになります。

その中身が本当に500mlかどうかはわかりませんし、体積という面で考えれば気圧なども若干影響していると思いますので、「だいたい」でいくしかありません。

ということで、「期待通りしっかり500mlあった」という正しさを証明するよりも、「別に495mlくらいでもいい」と許容する方が圧倒的に楽なのです。

キリスト教徒の底意 曙光 74

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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