アフォリズム 851-860
- 851.結局落ち着くところからの逆算
- 852.焦燥と行動
- 853.汎用性や再現性のある「理由」の獲得
- 854.見えない本当の理由
- 855.見栄の滑稽さ
- 856.一人の孫として
- 857.愛の垢取り
- 858.「何かが違う」という印象
- 859.自分の責任
- 860.結局は安心
851.結局落ち着くところからの逆算
「結局、あのような生活様式に落ち着くのであれば」という逆算から、消極的で消去法的な選択がなされる。
多大なる負債を抱え、「負債を安定的に返済するには」というような飼われたような生活に落ち着く。
852.焦燥と行動
勢いをつけて行動するというのは良いが、その奥に無駄な焦燥があるのであれば、行動などしなくてもいい。もちろん行動をしても良い。
どちらかというと「行動しなければならない」という脅迫の方に着目すべきである。
853.汎用性や再現性のある「理由」の獲得
汎用性や再現性のある「理由」を獲得しても、意外と再現できないことがある。その理由自体は、ある時のひとつの正解ではあるが、それが永続する汎用性や再現性があるような必須事項のように捉えられると、幾多の変化に対応できなくなる。
854.見えない本当の理由
自分がこのような営業方法を採用したから、あのお客と出会い、大きな収益を上げることができた、と思いたいのはわかるが、本来、本当の細かなところは思考では説明ができない。
なぜその方法を採用した先にその人がいたのか、その人の状況はあのような状況だったのか、というところは不明である。
本当の理由は見えないものの、無理にでもそうして理論付けたくなるのは、結局、再現できないことへの恐怖、裏を返せば、再現可能性からの安心を欲することから起こる。
855.見栄の滑稽さ
見栄が滑稽に映るのは、結局他人の目というものは、自分のイメージの中の他人によるものであり、それらはすべて内側で起こっているというところにある。
856.一人の孫として
祖父母に対して「良い孫でいよう」と思ったことは一度もない。
だからこそ全てが完璧に展開し幸福で満たされていた。
857.愛の垢取り
親子愛や兄弟愛のようなものは、無条件にそれが在る。
本来はどのような状況にあっても、むしろ相手がこの世にいてもいなくても、それが成り立っている。
だからこそ、愛に沿わない表現に不幸を見てしまう。
本来は、全てに対して愛がある。
愛が無いという判断、愛の成り立ちへの条件が、それを霞ませる。
思考で導き出した「このような親でいて欲しい」、「このような子でいて欲しい」という虚像の願いが愛を複雑なものにする。
そして、思考で導き出した「このような自分でいたい」という虚像の願いが、自己愛を曇らせ、人生を振り回してしまう。
858.「何かが違う」という印象
「何かが違う」と感じたときは、ひたすら力を抜いて、今現在に意識を向けると良い。
859.自分の責任
明らかに自分に非がないことであっても自分が責任を持つ。
ただ、その責任というのは他人の尻拭いをするというものとは別物である。
責任を持ちながら
「ふーん。あっそ」
と、淡々と流す。
そうして心が実際の現象を捉えるようになる。
860.結局は安心
具体的な何かを求めたり、制御しようとしたりするのは、結局安心を求めていることに他ならない。
納得できる理由を探すのも、他人を通じて何かを確認しようとするのも全て、求めているのは安心であり、そうした安心を求めるからこそ安心から遠のく。
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