アフォリズム 841-850
- 841.密かな憂い
- 842.たまにうまくいくこと
- 843.法則への固執
- 844.憐れみ乞い
- 845.「力強く、そして大きく」の極み
- 846.世界と私
- 847.視野ともたれ掛かり
- 848.コントロールの放棄
- 849.嘔吐く感覚
- 850.因果の関係性
841.密かな憂い
変性意識の生成と情動コントロール、端的には情報空間の操作、突き詰めればそれだけで人間社会は方向づけられている。
そんなことをして、生きて、社会が回って、何になる?
842.たまにうまくいくこと
たまにうまくいってしまうということは意外とタチが悪い。
843.法則への固執
様々な法則を発見して、再現しようと意図するのは思考の通常の働きではあるが、その法則は固執するようなものなのだろうか。実は、そういう風に思考しているだけで、結果的には法則が成り立っているような感じに見えても、実際の法則性は全く異なる構造になっているということはないだろうか?
自分の持つ法則にあまりに固執すると再現できなかった時に大きな混乱が生じ、苦が生じる。そのため、法則や経験則は、あまり意識しない方がいい場合もある。
844.憐れみ乞い
どうしてあなたの問題を私が解決しなければならないのかね?
私が当座の何かを解決したところで、あなたの本質的問題は解決しない、ということはないかね?
845.「力強く、そして大きく」の極み
力強く、そして大きくなるというのは、社会関係性の上で自分が有利になるということに関わっているというのはわかるが、その極みは、鍛えて強くなることではなく、我が消えることである。
846.世界と私
世界と私の関係としては、世界が私であり、私が世界であるということにはなるが、客観的な世界が空であり、私も空である。私なきところに世界はなく、世界なきところに私はない。
それはすべてがあり、かつ、全てがなく、すべての可能性やすべての状態が包括されているということになる。
ただそれは、実在しているというよりも空ということになる。
物理現実が私と同一ということではなく、空たる世界が私の内側で構築されているといった程度である。私の内側で構築されたものが、全世界ということにもなる。意識を当てるか当てないかだけで、全可能性、全状態は、その内側で既に構築されている。
847.視野ともたれ掛かり
そんな狭い視野で「考えたこと」を叶えるがために、他人にもたれ掛かるのはやめてくれないか?
848.コントロールの放棄
何かをコントロールしようとする意志は、「コントロールしないと、望む現実を見ることができない」というような恐怖心から起こる。
何かをコントロールしないでおこうという忍耐の意志も、同様の動機から起こる。
何の苦もなく、軽い気持ちで、思い立ったことだけやってもいいし、やらなくてもいい、というような感覚が、コントロールの放棄である。
849.嘔吐く感覚
肩の荷が下りて、幾何か目が覚めた時、求めていた何かに対して、嘔吐くような感覚が生じることがある。
850.因果の関係性
自我は汎用性を掴んで安心したがるが、本質的な因果の面では、現象の因果は思考で捉えたものとは異なっている。関係しているようなものも、実際は関係せず、つじつま合わせとして関係しているかのように見えるのみとなる。
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