アフォリズム 471-480
- 471.論理で示せる範囲
- 472.肝心なところに触れない自称聖典
- 473.嫌な相手の幸せを願う
- 474.はんなりビジネス
- 475.無理な抑制
- 476.認識する働きの生まれ
- 477.触れて受けた印象
- 478.説明の古さ
- 479.都市部の汚染
- 480.心が受け取る現象の生起の因
471.論理で示せる範囲
「証明されているのならば体験しよう」と言いたくなる気持ちも理解できるが、その証明を言語を用いた論理で行うには限界がある、ということくらいは理解していただきたいところである。
472.肝心なところに触れない自称聖典
聖典と言いながら、人の生まれ、人類の生起については嫌ほど触れつつも、この私の生まれ、この心の生起については、特に触れてくれないというところは不親切ではないか。
473.嫌な相手の幸せを願う
「いくら嫌なやつであってもそいつの幸せを願え」と言われてもそれができない場合は、ひとまず次のように考えると良いかもしれない。
例えば、その嫌な相手が腹痛で苦しんでいたとして、「腹薬を持っていくくらいは、まあやってやるか」とか、痛みの解消としてスッキリと出たことだけは喜んでやる、といった程度で考えるというようなものである。
「嫌ってやるのはひとまず出るものが出てからでいい」
というような感覚から始めると、多少なりと抵抗は少なくなる。
474.はんなりビジネス
異性についての様々な未経験をこじらせている者を弄ぶかのように、妄想を加速させ、妄想ですら手の届かない感覚をさらにこじらせるようにして、追わせるようなことをしていると、いつか何かしらの形でその報いを受け取ることになる。
475.無理な抑制
無理な抑制をするくらいなら、その行動や行動の際の心の動きの変化などを具に観察する方が良い。ただ、観察を阻害する「酔わせるもの」は避けなければならない。依存性のあるものは、なおさら避けなければならない。
476.認識する働きの生まれ
身体や思考の生起については、「母からの生まれ」、「外界からの情報の集まり」というもので説明できたとしても、それらの要因は、その結果を受け取る「心」の生起については、説明していない。
「認識する働きとしての心」、「ただ受け取るだけの機能」の生起の要因、その構造が、頭で考える範囲では不明なのであれば、身体の死によってその心が消滅するかどうかも不明である。
「何によって生じたのか」が不明なのであれば、「何によって消滅するのか」も、ただの思考では推測の域を出ることはない。
少なくとも「死によって苦が消滅する」というような、短絡的な答えを確定させることはできない。
477.触れて受けた印象
何かしら非日常的なものを体験したとしても、頭の中で合成された対象に触れて受けた印象にしかすぎない。そのようにして、単に印象、概念に触れた、それを受けたという程度で留まることはできないのだろうか。
そこから先の解釈は、単に思考によって紡ぎ合わせた自己流の新たな印象、概念にしかすぎない、ということは、理解できないものなのだろうか。
478.説明の古さ
抽象度の高い説明をすると相手が出だしから理解できないことがあるため、抽象度が高い普遍性のある事柄であっても日常に近い言葉で説明していく場合がある。この場合の例えは、その時代、その社会を背景として語られるため、説明としては古く、逆に理解がしにくいということも起こる。
479.都市部の汚染
地方にいた時の作品は優れていても、都市部に行ってからは質が落ちたという場合、都市部に汚染されたということになる。それは、共感者や仲間のようなものにほだされたり、都市部に自分を合わせようとした結果である。
480.心が受け取る現象の生起の因
心が受け取る現象の生起の因は、それに応じた「向きを持ったエネルギー」である。そのエネルギーは、位置エネルギーに近い。
普段、自我の認識する原因は、厳密には縁、つまり諸条件にしかすぎない。
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