アフォリズム 311-320

アフォリズム 311-320

  • 311.無気力の但し書き
  • 312.その場の最適を選んで意識を向ける
  • 313.受け入れと飲み込み
  • 314.うまくいかないこと
  • 315.情報による暴走と手綱
  • 316.初回の決定要因としての権威
  • 317.仮観とキリスト教的世界観と社会生活
  • 318.己が興奮のための助言
  • 319.欲や怒りが静まった時に現れる顔
  • 320.執著の対象の変化

311.無気力の但し書き

「何もしたくない」と思ったとしても、「今、考えうるものの中では」といったものや、「今の体調では」といった但し書きがついているというのが本当のところであり、様々な制限がないとすれば「何もやりたくない」という考えはそう滅多には起こらないはずである。

312.その場の最適を選んで意識を向ける

何かしらの消極的な感想が起こる時は、現実や現在に意識が向いていないときであり、その場の最適な動作等々を選んでそれだけに意識を向けて集中すれば、無駄な煩いはどんどん消えていく。

313.受け入れと飲み込み

人が多い場所というものは、様々なものを受け入れるが、同時にそれらを飲み込む場合もある。

314.うまくいかないこと

「うまくいって欲しい」と思いつつもうまくいかないという場合、「成り立たない方が正しい」ということを理が示しているという場合がよくある。

315.情報による暴走と手綱

外界からの情報によって意識が暴走してしまう場合は、無意識化されたそれらの形成された衝動を無意識に任せずに意識に上げて確認する。そうすれば手綱を握ることができる。

316.初回の決定要因としての権威

物事を選ぶ時の決定要因が欠けていると決断というものが起こりにくい。とりわけ中身についての情報が不足している時、様々な権威が初回の選択において決定要因となりうる。人が権威を欲しがる要因の一つは、こうした初回の決定要因としての機能の面である。

317.仮観とキリスト教的世界観と社会生活

仮観の中にいて社会生活を送るという面で考えればキリスト教的世界観での知識、判断が有効となる場合も多い。しかしながら、そうしたものは、社会生活の効率性の問題であり、根本的な心の安穏を考える上では、当たり外れがある。

318.己が興奮のための助言

皮肉でも罵詈雑言でもなく、直接的な自尊心の補いでもなく、自分の都合すら入っていないような言葉をかけつつも、その奥には、英雄主義的興奮を意図している、という場合がある。

319.欲や怒りが静まった時に現れる顔

欲や怒りが静まった時に、暇や退屈というような感情が現れる。

そうしたものは無知により生ずるものであり、それこそが欲や怒りの根っこの部分であると観察すると良い。

表立った欲や怒りが静まった時、それが安楽であるはずであるのに、そうはさせまいとする衝動を具に観察すると、本来の安らぎに一段と近づく。

320.執著の対象の変化

一切の形成されたものは無常であり、常に変化をしている。その変化と同時に執著の対象も徐々に変化している。

執著の対象も変化し、また、意図したように対象の状態が変化しても束の間の安らぎしか訪れない、という現実をありのままに観て、無駄な苦しみは、外界に頼る精神の方に原因があることを見破らなければならない。

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Category:アフォリズム

「アフォリズム 311-320」への4件のフィードバック

  1. お久しぶりです。いつも楽しく拝見させて頂いております。アフォリズムシリーズも同様に毎回目を通させて頂いております。
    314について何となく捉えきれませんでした。この世は私も含めて諸行無常だからですか?あるいは空だからでしょうか?
    ならばなぜ「成り立たない”方が”正しい」が理になるのでしょうか。
    ご教示頂ければと思います。

    1. お久しぶりです。ご高覧ありがとうございます。
      「314」については、諸行無常や空と絡めた厳密なものというよりも、実社会の現象について、という感じでしょうか。
      「成り立たない」という現象が、その奥にある「本来の法則」や自分の「法則・構造の見誤り」を示しているという程度です。

      「男らしさを勘違いしつつ、モテようとして意図的にオラオラと偉そうにしてみても嫌われるだけだった」というようなものを考えれば、その方法論は間違いであるということを、一種の理が示していることになります(理という言葉が引っかかる場合は、自然な法則と捉えてください)。
      そうした場合、「うまくいかないこと」が、正しい法則性を示すことになります。

      また、かつて自分が組み立てた計画を振り返り、当時は「完璧であり、これでうまくいくだろう」と思っていたものの、うまくいかなかったことがあったとします。
      そんな自分を振り返った時、「まだまだ青い。そりゃあうまくいかないわ」と思ったりすることがあります。
      当時も当然に「うまくいって欲しい」とは思っていたわけですが、様々な構成要素が見えていなかったり、見誤っていたりしていたわけです。
      今となってはうまくいかない理由をだいたい説明できます。
      ということは、それに関係する「理」が今は見えているということになります。

      なので、全体を包括した「理」というようなものよりも、個々の法則性と現象と「自分の判断」の関係程度の内容です。

      1. 返信ありがとうございます。
        詳しい説明ありがとうございます。解像度が上がって見えるものが見えてくるということでしょうか。未だ「理」について捉えられていなかったです。だからそこ、自分の中でつっかえた状況にあります。
        自分が意図せずか知らずにか(あるいは見誤って)その方向性に向かうよう仕向けている部分もあるのでしょうね。これが青いと評されるのかもしれないと思いました。

        1. 再度コメントどうもありがとうございます。
          曇りが取れるというところで考えれば解像度が上がって見えるものが見えてくるという感じになると思います。

          「概念」は、捉え方によって変化していきます。
          それらは曖昧なもので個々人によって様々です。
          言葉も文脈によって変化します。
          概念は「ただ単なるふんわりしたイメージ」という感じですが、それらを用いて別の何かを捉える時に、「様々な捉え方」と「この文脈における厳密性」なんかを自分の中で吟味するというのが良いと思います。

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