本格的に読書の習慣ができたのは19歳くらいからですが、京都という土地柄か、幼少期から言葉自体で楽しんでしまう癖があります。
先日、米子の皆生温泉に行ったときの宿泊先に次のような本がありました。
一体何の本を読んでいるのだという感じもなりそうですが、もちろんそうした土着文化に触れるというのも旅の醍醐味です。この手の本は京都市内でそうそう読めるものではないため、その日は雨ということもあって夜の間に全て読んでしましました。
その本に次のような項目がありました。
「専売局岡山製造所米子出張所こしらえ工場」
「ふむ。こしらえ工場か」
と、最近ではあまり使われない言葉であるという印象を受けました。
そうなるとやはり、京都市内某所にあった100均における「たいがい100円」という案内や某食料品店における「せいぜいご利用ください」というサービスシールを貼る台紙的なものを思い出してしまいます。
そうした言葉が使われなくなっていくという現象も面白いですが、その言葉自体が持つ印象すら変化していくというのも面白いと思っています。
パジャマとルームウェア
語学と言うと学問としての外国語を指すような感じもしますが、本来は広く国語や言語学を含めた「言葉の扱い」を総合的に考えるほうが良いと思っています。
今年に入ってから訪れた飲食店にて、店主の方が次のようなお話をしてくれました。
「友達がパジャマ姿で来た」というような話をお客にすると、そのお客の子である高校生くらいの人が
「パジャマって…ルームウェアって言いなよ」
みたいなことを鼻で笑いながら言ってきたそうです。
「外国人の人権を無視して利益を上げる」系の衣料品会社の影響を受けているのか、パジャマは時代錯誤であるというようなことを思っているのでしょう。
しかしすぐに理解することができるようにパジャマは寝間着であり、ルームウェアは部屋着です。
ご本人はルームウェアのまま寝るのが習慣であり、寝間着というものを着用したことがないのでしょう。
というのはいいですが、かつてはパジャマと呼ばれていたものが今ではルームウェアと呼ばれているというわけではありません。
直訳で考えてもルームウェアとは、部屋着にあたるため、寝る時の衣服という限定はありません。英語として主張するならせめてナイトウェアでしょう。
パジャマという言葉は聞いただけでは何かわからない、推測できない言葉ですが、そうであるのならば、下手に「ルームウェアって言いなよ」と言ってしまうことは相当のリスクがあります。
ということで、傲りの要素を含め、「愚」が重ねられているという印象を受けます。
間違えるということは仕方がないことであり、それ自体はいいですが、「なぜ、鼻で笑うほど強気になれるのか?」というところを考えると「まあまだ広い意味でのモテをこじらせているのでしょう」ということを思ってしまいます。
という中、その店主の方は
「そうかぁ。今はそう言うんやねぇ」と答えたそうです。
まあご商売ですからね。
―
「パジャマって…ルームウェアって言いなよ」に対しての印象について「僕が勝手に思った」と思う人もいるかもしれません。しかし僕は単に聞き手であり「それは店主の方が語られていたこと」であるとすれば印象は変わってしまうかもしれません。
もしそれが僕と店主の会話であり総意であるならば印象は変化し、それでいて、もし誘導尋問のような要素があったとすればまた印象は異なるはずです。
というところすら言葉というものを楽しんでいるということになります。
―
そういえば最近本ブログにおいて、フィルタリング機能もうまく通過し、かつ、中国を回避し(アクセス自体をブロックしています)アメリカ経由で「スーパーブランドコピー」系のスパムコメントが来ました。
ブランド商店 というような文言の後
賢者の買い物
と記載されていました。
楽しませてくれるじゃないか。
最終更新日: