「すべてを謳歌」ということは「完全燃焼している」という状態が常にあって、常に相当の集中力を注ぎ込んでいるというようなことになるでしょう。
今では、大抵のことが予測できていまいち楽しめるのか疑問だったりしますが、それでも、やはり楽しく物事は過ぎて行きます。
「最近、何か面白いことない?」
そんなセリフを言う人は相当のお笑い通か、そうでなければただの楽しくない人でしょう。
そういう人には特徴があります。
いつどこで何をしていても、全く集中していません。
考え方まで外からの受身
たとえば「楽しそう」ということで、海に行くまではいいですが、泳がずにずっと座っていたりします。
いちおう全ては受身ですが、考え方まで外からの受身の状態だと、結局、どこで何をしていても面白くありません。
これは、自分で何を望むのかすら他人に決めてもらおうとしているような怠惰の状態です。
いつどこで何をしていても楽しくはないですが、「楽しくなりたい」とは思っています。
しかし、他人は他人、自分と楽しいことの感性がもちろん違うので、ほかの人が選んでくれる楽しみは、その人の楽しみです。
自分も楽しめるとは限りません。
行動不要
楽しむためには、ということで「○○をしなければならない」という必須のことはありません。
楽しむためどころか、すべてに行動は要りません。
しかし、「行動」という言葉の定義を考えたときに「一切の動作」ということにとらわれてしまう場合があります。
ギターを弾くためには、原則的に左手で弦を押さえて、右手でピッキングをしなければなりません。
ギターが弾きたい、と思ったときに、ギターなどは誰かがタンスの肥やしにしていたギターをくれるかもしれません。
しかし、「弾く」ためには、弾かなければなりません。
「海で泳ぎたい」と思えば、誰かが連れて行ってくれるかもしれません。
しかし、海に入ったなら泳がなくてはなりません。
「行動」という言葉尻をつかんで、そういう点まで同一視してしまうのは「アイツ」の仕業です。
ここで、さらに踏み込んで考えてみると、海に行きたいのは、「なんだか開放的な気分になれて、楽しそう」というワクワクが起こったからです。
いちいち義務的に集中力を増そうとするのは誤りですが、意識しなくても「楽しもう」という心持ちになれることだけを探してみてください。
実際に海に行くということも起こりますが、もしかしたらもっと楽しいことが起こるかもしれません。
具体的なイメージをつかむこともいいですが、抽象的なイメージも掴んでみましょう。
そうしていると、次々に「行動不要」が実感できるようになります。
妄想や気休めではなく、体験として。
過去記事⇒すべてを謳歌してくブーム
最終更新日: