生きてる時に終わるのか、死んだ時に終わるのか、それはまちまちですが、全てのモノや人、自分と関連する事象とはいつかはお別れしなければなりません。
とりわけ愛着のあるもの、愛の対象となるものとのお別れについて、アイツは「悲しいこと」と判断しますが、悲しんだところで何をどうこうはできません。
「愛を持ち、悲しんだところでどうにもできない」
その事実をしっかり見ていたのなら、焦る必要もなくなり、モノへの執着もなくなり、思い返せば全ては流転していた、同じように見える人や現象も、すべて同じものではなかった、それをつなげていたものはただ単に記憶という「アイツ」の機能だった、ということに気づきます。
じゃあ、なぜわざわざ苦しい「悲しい」という感情はあるのでしょうか。
考えなくてもいいのですが、ちょっと考えてみると、「盛り上げるための演出」くらいに思うとちょうどいいのかもしれません。
物事には始めと終わりがあります。終わりは始めと一直線でつながっています。
いずれ終わってしまうのだから、とすべてを虚無的に見て何もしないというのも、選択肢の一つかもしれません。
しかし、間には経験があります。常に今しか感じることはできません。
そうなると、「いずれ終わってしまう」というのは事実であっても現時点での予想、妄想というふうに捉えることもできます。
いずれ終わってしまうけど、確かに今そこにある、そこにあることは事実ではないかもしれませんが、今、自分が「感じている」ことだけは、存在の証明の必要もありません。ほかの人の意見は全く関係ありません。即時的なので、本来的に他の人どころか自分の考えも侵入できない領域です。
そう思うと、何も恐怖心にとらわれることなく、すべてを大切に思えるのではないでしょうか。
無くなることへの恐怖心と、今感じている愛情は別物です。
これを混同してしまうと、トンチンカンな「今」ばかりが続くことになるのでしょう。
そして記憶に限って言えば、その解釈でいかようにも価値は変わってしまいます。
終わりよければ
人から「結果的によかったね」といわれる必要はありません。
自分の中でどのように解釈結果が存在しているかによって(実際はそんなものはありません)、楽しかった思い出もただの辛い思い出になってしまいます。
仲の良かった人達と喧嘩別れしてしまえば、その人たちとの「思い出の写真」は、ただの嫌がらせ材料にしかなりません。
直近までは、「よい思い出」だったものが、急に180度転回して「苦しむだけの思い出」になってしまいます。
そして、当の写真は役目を終え、破棄されたりします。
しかし、これも変な話です。
ふとした現象で解釈が変わり、起こる感情の種類が変わってしまいます。
人に限って言えば、論理性も一貫性がありますが、思い出といまのその人とは本来別のもののはずです。
それを関連させるものはなんなのでしょうか。
そんなことをふと考えたことがあります。
やはり好きな気持ちは変わらない
未だに同じタイプの人に出会ったことはないのですが、僕はかつてお付き合いしていた人から、誕生日にメッセージをもらったり、年賀状が届いたりします。それも一人や二人ではありません。
「そんなことはありえない」
そう言われることがよくありますが、実際に起こっているのだからこちらは返答に困ってしまいます。
特にいまさら何をどうこうするつもりはないのですが、知らぬ間にオス、メスの次元を超えて仲良しになっていたのでしょう。
僕は昔から「離したくない」という気持ちがありません。
そのせいで勘違いされてふられたことはありますが、以前、その相手ともふられたあの日から十数年経ってから再会しました。
とうの昔に人妻になっていたのですが、再会当日の僕はあの当時の僕に返ったような気持ちになりました。
僕は十代の頃のように、待ち合わせ1時間前に集合場所に行ってソワソワする、ということを経験しました。
実際に会ったのは、モノの数時間でしたが、今、幸せそうに暮らしている彼女を見て、最大の至福を感じたのは言うまでもありません。
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