われわれと平常われわれの友人であるものに対して誠実、敵に対して勇気、敗北に対して寛容、常に― 礼儀。四つの主徳はわれわれにこう望む。 曙光 556
いきなりこんなところで、疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、といったように戦国武将のような項目になっています。
だいたい「やばい」とされるのが、こうした標語を社長室に飾っている人です。ブラック企業に限って、「十訓」みたいなものを掲げていたりします。
「従業員を人間として正しい道に導くことが私の使命だ」という感じで思っていたりします。
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ということで、企業理念のようなものやビジョンのようなものについてでも書いていきましょう。
歪んだ企業理念
「胡散臭いコンサルの次はポンコツなコンサル」で触れていますが、胡散臭いコンサルタントやポンコツなコンサルタントが大好きなものが経営理念です。最近では企業のビジョンなんてな表現に変わりつつあります。
ある知人の公認会計士に聞いたところによると、「ビジョナリー・カンパニー」などなど、元々そうした類の本にあったビジョンという概念が日本に輸入された時に、少し歪んだ形で伝わり、今あるような「経営理念」として持ち込まれたということのようです。
いまでは若干元々のビジョンに修正されつつあるようですが、カッコをつけたい人たちが、難しい故事や漢詩などを元に「お客さまのために」的なことを書道家に書かせたというところが所謂経営理念です。
で、最近はそういうのが問題視されつつあり、「お客さまのためにって言ったって、どこもそんなこと言ってるし、抽象的すぎて、ほとんど何も意味をなしてないんじゃないか」的なことがツッコまれ、経営理念はビジョンにバージョンアップをされつつあります。
ただ、メーカー等々わかりやすい企業ならまだいいですが、どこどこのサービスの代理店、販売店などであれば、ただの営業会社などであれば、少し無理があるような気もします。
ビジョンって何だ?
で、結局「ビジョンって何だ?」ということにもなりますが、「ビジュアル」ということで、何か見えている景色的なことを意味しているはずです。
コンサルタントたちに言わせると、「自分たちが思い描く社会」ということのようです。
輸入時に趣旨が歪む
さて、ここでいきなり話が飛びますが、経営理念のような概念が輸入された時にも趣旨が歪んたのと同じように、もしかすると外国から入ってきたものの大半が歪んだ形で入ってきているということについて触れていきましょう。
カレーなんかも現地のものとは大きく違いますし、わかりやすいと言えばわかりやすいもののはずですが、カレーは日本風でも十分うまいから問題がないというような感じで、すべてに盲目になっているようなフシがあります。
伝言ゲームで、最後にはぐちゃぐちゃになるのを知っているのに、どうも日常はそれを問題視していないような風潮があります。
まあ、この趣旨の歪みについては、伝達のプロセスを考えたときには、伝え手と受け取り手が双方に持っている前提や常識が違うので仕方ない部分はあります。
ただ、深く理解をしようと思えば、純粋な視点が必要になります。
過去の延長で考えるからズレる
例えば、昔の日本で日本でキリスト教というかイエスを捉える時に、八百万の神の延長で捉えるのが普通であったと考えられます。「理解」は、「知っていることを組み合わせて捉えていく」という感じになるからです。
仏教が中国に伝わったときも、道教や儒教の延長で、それに付加する形で仏教が伝わったはずです。
英語を勉強する時に日本語の延長で考えると、なかなかうまくいきません。一度日本語で考えて、数学的に英語に変換するというプロセスが必要になるため、何かにつけて時間と労力がかかってしまうのです(といっても僕個人は、英語を必要としていないので英語は中学生レベルです)。
経済活動においても、自分が爆発的に稼ごうと思えば、今ある延長で考えるということを捨てたほうが早いのですが、大体の人がしていることと言えば、今あるビジネスモデルの中で、部分的な改良をしていこうというようなことであり、過去の延長でプラス材料を探すということをしています。
そういう感じで、日本に仏教が伝わった時には、まず中国で道教儒教の延長で考えられた仏教が日本に来て、当時の日本人は、神道というか八百万の神や民間信仰の延長で仏教を捉えたはずです。
伝言ゲーム
ということは伝言ゲームと同じように、かなり歪んだ形になっているはずです。
ただ、個人が持っている解釈可能性のレベルに応じて、その個人の中で概念が出来上がります。
ということで、特にそれが「間違いだ」というのもナンセンスです。
なぜなら、当の本人と同じレベルで概念を把握しようと思うと、当の本人と同じ前提を予め持っている必要があるからです。
だからこそ経営理念として、「風林火山」と掲げていても、本人が武田信玄と同じようなマインドを持っていないと、元の「風林火山」とは異なった意味になってくるのです。
そう考えると、シッダルタが語ったと「される」ことを弟子が経として書いたもの、イエスが語ったと「される」ことを弟子が福音書として書いたもの、という感じで、かなりの伝言のプロセスを踏んでいます。
それら言葉や行動の真意は、本人でないと100%はわかりません。
聞いた弟子がどのようなことを前提として持ち、どんな常識を持ち、言葉にどのような定義をしていたかによって、解釈は大きく変わってきます。
ということは、どこまでいっても推測の域は出ないのです。
であるのならば、「これが本物だ」ということを信じようとすることよりも、何かのエッセンスとして受け取り、自分の中で何かをつかんでいくくらいしか術はありません。
人によって異なる解釈も、あえてアンチにならずに、ひとまず解釈可能性として素直に理解だけはしておいたほうが良いでしょう。
しかし相手に同調したり、それを盲信したりする必要はありません。
議論の先に何を見るか
賢人と愚人の決定的な違いというものがあります。
それはどのような議論においても、「ただ、最高・最良の結果を求めている」というような感じか、はたまた勝ち負けが目的なのかという構造の違いです。
いわば賢人たちはどちらが正しいかをジャッジするのではなく、最も高いレベルの命題に出会うことを目的としている、という感じです。
非体育会系ですが、あえていうと、トップの選手たちは、自らの技量の高みを最高のものとしていると考えています。
そういう意味でライバルを愛し、自らをさらに高めてくれる最良のパートナーだと思っているはずです。
二流以下の体育会系ほど、相手の足を引っ張ってでも勝ち負けで勝とうとします。
つまり目的としているものが、その分野においての「高み」であるのか、「勝ち負けによる人からの賞賛」であるのかの違いです。
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王子としての地位を捨て、「うちの教団を任せるよ」と言われたのも断り、ただ最高の答えを探して旅を続けた人がいます。
「お山の大将として皆に崇められ、悠々自適に暮らせるぞ」
「そういうことじゃない!」
そんな人の気持ちは、そんな人になってみないとわからないのかもしれません。
ただ言葉を追っても、その言葉をどう捉えるかは、その人の状態によって変幻自在となってしまうのですから。
すぐれた四つ 曙光 556
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