2024年が終わります。12月生まれということで41歳になりました。数え年で42歳厄年です。流れ作業についていけるかもしれない、黒夢のファンでございます。
ということで、2024年の思い出についてでも触れていきましょう。
数々の「試練」
今年は数々の試練を与えられるような年になりました。
試練感にはいくつかの「山」があり、それぞれなかなかの厳しさがありました。
母に関するものだけではありませんが、やはりそれは母が倒れてからのものが中心となります。それぞれ段階的に表面化してきました。
母が小脳出血で倒れてその後重度障害になったこと、それそのものよりも、様々なバランスが崩れてそれぞれの歪みを矯正する過程で生まれたものがほとんどです。
一番は「吠えたける悪魔との戦い」です。その他、ケアマネジャー等々の頼りない人たちの「頼りなさ」との戦い(耐え難きを耐えるわけがない)もありました。
細かいもので言えば娘を通じてやってきた副鼻腔炎や胃腸炎等もあります。夏の暑さもそれに追い打ちをかけました。
時間、労力、金銭、少なからず母に支えられていたものが外れ、そして逆に時間や労力や金銭といったものを費やす必要が生じました。
また、経営者、事業家としての課題もありました。社会環境が少し元通りになってきながら、消費のあり方は完全に以前と同様ではなく、様々な「給付・補助」が外れ、原油高や円安、インフレの影響もある中で変化した「人の意識」への対応です。
社会環境が元に戻りつつあるからと言って、前と同じ事業のあり方、マーケティングのあり方のまま通じるかと言われると、部分的には通じない部分が出てきます。その部分の調整です。
事業だけに意識を向ける余裕はありません。
というような試練です。
「吠えたける悪魔」による解決積みの問題の再チャレンジ
ただ、やはり一番は、様々な記憶が呼び起こされることでした。
既に解決済みというか、自分の中で整理がついているようなことに対して、「吠えたける悪魔」が再チャレンジしてくるということが多かったような気がします。
例えば、母に関する様々な課題に対して、父は逃げました。
母の入院中、高額療養費の自己負担プラスアルファ程度だけは支払いつつ、それまで母に渡していた「生活費」を、勝手に自分の消費に回していました。
端的には「自分も辛いんだ」と酒を買っていたような感じですね。その他、意味不明なネット通販商品もよく届いていたようです。
で、母が自宅に帰ってくるとなった時に、生活環境を整えるために多少なりの費用が必要になります。
その時に、「お金がない」というようなことで逃げようとしました。
「今までお母さんに渡していた生活費の分はどこに行った?」
「ないもんはない」
元々、今の父の収入としては年金収入を含めると、その「母が倒れる前には渡していた生活費」の倍はあります。
弟は父を殴りました。
本来、暴力は否定されるべきものです。
しかし、僕はそれを止めませんでした。
近いようなことは、僕が高校生の時にもありました。
その後も、母の夜間中途覚醒時に対応をしていたこともあるようですが、基本的には母の介護を手伝うわけでもなし、お金を出すわけでもなし、という感じだったりしました。
生活というものは、様々な雑事が無数にあります。
母への対応で睡眠や生活全般が追いついていない弟に手を差し伸べることはありませんでした。
「金を出して欲しければ私を尊敬しろ」
というような感じですね。
事業破綻後に数年間、同じようなことをしていました。
「あの時のような思いは二度と経験することはないだろう、だから過去のことはどうでもいい」というような感じで、解決していたような問題を
「さあもう一度どうぞ」
と現役で再現してくるわけです。
この問題は、「僕や弟がお金を出せばいい」というような問題ではありません。
表面的で短期的な問題解決としてはそれでいいかもしれませんが、そうした問題ではありません。
子として「父」というものをどう捉えればよいのか?
夫婦とは何なのか?
家族とは何なのか?
大人とは何なのか?
そして、
人間とは何なのか?
といったレベルの問題です。
解決プロセスの類似性
また、「吠えたける悪魔」による再チャレンジであるというのは、解決プロセスの類似性からの印象でもあります。
かつての高校生~20代前半のころの父の事業破綻後の金銭面の解決プロセスと、今回の介護サービスのあり方の解決プロセスが似ています。
20代前半のころ、父の債務に対して「自己破産以外にどうしようもない」という弁護士に対して、弟が大学で習いたての個人再生制度を提案し、弁護士がハッと気づいて対応するという流れになりました。
今でこそ一般にも多少知られている制度ですが、個人再生制度は、2001年4月施行の「民事再生法等の一部を改正する法律」から始まったので、その当時、当の弁護士はまだその制度を利用したことがなく解決策として思いつかなかったという感じです。
「父の『頼りなさ』や『逃げ』に起因する金銭トラブル・家庭トラブル」
「専門家といえどもあてにならない」
「弟が制度を調べ、相手に伝えて解決に向かう」
という流れが同じです。
今回の母の介護サービス利用も、「上からはこう説明を受けています。だから無理です」というあまり法に詳しくないケアマネジャーに対して、兄弟で各種制度の根拠となる法律やそれを実際にどう解釈して運用するのかという省庁からの通達、類似ケースの判例などを調べて、徹底的に攻めるつもりでした。仮に市が制度利用を渋ってきた場合は、行政裁判をするくらいの事前準備です。
結局は市の担当者ができる人だったので難なく事が運び、助かりました。
試練の中、与えられた勇気
そんな試練の中、娘とその友だちにたくさんの勇気をもらいました。
幼児が様々なことを乗り越えていく様が、「うーん。負けてられんなぁ」という気持ちにしてくれました。
あえて娘ではなく、娘の友だちについて触れていきましょう。
その子は、入園から2ヶ月くらい経っても、教室の前で「おかあさーん」と、おかあさんを呼び続ける子でした。
何度もその様子を見たことがあります。
いつも汗だくです。
聞くところによると、園バスの中でも大声でおかあさんを呼び続けているようで、園に着く頃には汗だくという感じのようでした。
ある日、たまたまその子が上級生に手を引かれてバスから教室に向かうところに出くわしました。
大一番が終わった横綱のように汗だくです。
しかし、その日は目つきが違っていました。
一度だけ園の入口をチラ見した後、上履きに履き替えて教室に入っていきました。
その子が覚悟を決めた日、覚悟を決めて独り立ちした瞬間をたまたま見ることができました。
「いつもおかあさんを呼んで泣いていたあの子が今日は泣かずに上履きを履いて教室に入っていったよ」
と妻にいうと、妻はさっそくそのおかあさんに連絡をしました。
その子のおかあさんは「感動して泣いています」と連絡を返してきてくれたようでした。
そんなことは、その日が初めてだということでした(毎日先生に「今日はどうでしたか?」と聞かれていたようでした)。
ということで、僕は覚悟と勇気の感覚を与えてもらったりしたわけです。
誕生日に僕が望んだこと
さて、そんな中ですが、この12月の僕の誕生日に僕が家族に望んだことが2つあります。
それは
「妻の茶碗蒸し」と「娘をおんぶ散歩すること」
です。
妻の茶碗蒸しをいただき、娘をおんぶ散歩していると、勤め人時代の当時70代男性のお客のことを思い出します。
あまり人と比較するというのはどうかと思いますが、個人的な満足なのであえて利用させてもらっています。
それは、そのお客のところに行ったときのことです。
その人は、立地と規模的におそらく1億くらいのマンションに一人で住んでいました。
そして、住居のこともそうですが、事あるごとに「なぜ、こいつは羨ましがらないのだろう?」と自慢話のようなことをしてきます。
それは元々母の家系が少し裕福な家庭であるということもありますが、当時一応金融業界にいたものとして、「養う家族がおらず、ある程度高度経済成長の恩恵も受けて、さらに一人っ子で親からの遺産をすべて受け取ったのならば、それくらいは普通だろう」という銭金の計算もありました。
何より
「この人には何も残らない」
という印象しかありませんでした。
目の前の業者に「俺は金を持っている」と自慢するのが関の山の人間ですから。
妻の茶碗蒸しを堪能したり、娘をおんぶして散歩していると、瞬間的にその人のことを思い出し、「ボロ勝ちー!」という気分になります。
もちろん幸せは勝ち負けではありません。
しかし、ボロ勝ち感を味わい尽くしているわけです。
仮に1億出そうが、彼には僕の感覚を味わうことができないんです。
逆は可能です。それを選択することはありませんが、僕が彼の状況を作ろうと思えば作ることは可能です。
つまり、ボロ勝ちということになります。
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それではまた来年!
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