かつてのドイツ人的な教養

あのドイツ人的な教養はヨーロッパ人を馬鹿にしたということ、またそれはそうした関心に、それどころかそのように模倣したり張り合って自分のものにしたりすることに値しなかったということは、否定することができない。まあ今日、シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい。 曙光 190 中腹

「シラーや、ヴィルヘルム・フォン・フンボルト、シュライエルマッハー、ヘーゲル、シェリングなどを捜すがよい」

「誰?」

という感じの感想を持つ人が大半のはずです。

ということで、曙光のこの部分を読むだけでも、各人のことを調べていかないと読み解くことができないという感じです。

ちょうど「われわれ初心者!」で触れたような「単語の意味がわからない」という感じです。

そんな感じで、活字中毒期に入ってしばらくしたころ、人と話す時、何をどこから話せばいいのかわからなくなった時期があります。

相手は何をどこまで知っているんだろう?

愛という言葉一つとっても各人にとって持っている概念、定義が違うことからわかるように、日本語のどの単語を切り取ってみても、相手はその単語をどういう風に捉えているのかは、はっきりわかりません。

一人称くらいならそれほどブレることもないと思いますが、それはもう大半の単語で持っている概念に食い違いがあるはずです。

我が事として考えた場合には、辞書的な定義を知っておくと本を読む時や人の話を聞く時にある程度すっきりすることができますが、「さて、相手はどんな定義を持っているんだろう?」とか「相手はどこまで知っているのだろう?」というところが気になり、何から話せばいいのかわからなくなった時期があるという感じです。

説明せよ、論じなさい、も同じ

おそらく説明問題や論述問題に初めてぶち当たった時に、僕のようなタイプの人が最初に抱える問題は、「どこから説明すればいいのかわからない」というものです。

本当に詳しく書こうと思えば、それぞれの単語の意味を定義して説明する必要があり、あくまで言語などある状況、ある条件下、ある関係性の中でのイメージでしかなく、いくら上手く説明したとしても、根本的な日本語や日本語の単語自体を完全に説明することはできません。

それはソクラテス的な「どこまでも問い続ける」ということをしてしまうからです。

例えば「どこから説明すればいいのかわからない」という一文でも、「どこから」とは何か、「説明」とは何か、というところも説明しなければならないという風に感じるからです。

そういう意味では、訓練として「だいたいこれくらいからの説明スタートでいい」ということを最初に誰かが教えてあげるか、それを自力で発見する必要があります。

「無知の知」による迷宮からの脱出

どこからどこまでを伝えればいいのか

「民法719条について論じなさい」

という問題を見た時に、まず「民法」とは何か、というところから説明しなければならないのではないか、とすら思ってしまいます。

そして、相手が学校なら、そういう説明を省いても、相手は民法とは何なのかを一応理解はしています。

しかし、民法とは何かをしっかりと把握していない人に対して、説明しようとすると、そうした分野では当たり前になっている事柄が前提にならないため、全貌を伝えることができません。

そういう感じで、「どこから説明すればいいのかわからない」という状態がやってきます。

相手が学校だったとしても、「前提となる部分については触れられていない」ということで減点になるという感じのこともあり得ます。

ということは、どこからどこまでを伝えればいいのかが全然わからず、どこまで詳しく定義していけばいいのかわかりません。

こうした現象は今なお続いている

いちおうある程度論述などの訓練をしていくと、相手はどういうことについて押さえておいて欲しくて、どこを省いてどこを重点的に書けばいいのかが分かるようになってきます。

そのための字数制限といっても過言ではないかもしれません。4000字でまとめるとするならばという感じで要約していくと、相手の意図と書くべき範囲がつかめてきます。

しかしながら、それは学校での話です。

経済活動を行ったりという感じで、例えば対面で話している場合であれば、相手が説明のどの部分に躓いているかや、単語にどういうイメージを持っているのかが表情等々でわかるため、調整がし易いものの、メールや手紙などの文章で伝える場合には、相手との食い違いに対する修正がしにくいという面があります。

前提となる知識を持っていないと、読み解くことができず、論理のマジックも見抜くことができません。

目には映っても、真意が理解されないという現象が起こります。だからこそ、世の為政者は常に情報を隠しているのです。

と余談になりそうになりましたが、続けましょう。

こうしたように、前提となる知識の有無や単語に持っている印象・定義が異なるため、あるメッセージを伝えようとして伝わらないことがあります。

双方が「理解し合おう」と思っている状態

そこで感じる変な風潮は「小学生にでもわかりやすく話すのが正しい」というような流れです。

なぜなら、小学生にでもわかりやすく話そうと思うと、単語の定義変わってきて、厳密な話をしようにも、内容がぶれてしまうことがあるからこそ、あえて的確な単語を使っている、というものを否定することになるからです。

医者と医者が話す時、医学用語を使えばすぐに終わるものを、小学生用に噛み砕く必要はありません。

宇宙語ともとれるような難解な用語で話をしたほうが、誤解も少なく、意味がすぐに伝わるのです。

ところが、例えば全くパソコンなどについて知識を持たない人に、スマートフォンを契約してもらおうと思うと大変です。

「手のひらサイズのコンピュータのような感じです」

といっても、コンピュータがどのようなものなのかすらわかっていなければ、その説明はあまり伝わりません。

そうした人に「アプリとは何か」を説明するのはかなり難しいでしょう。

それは説明する側、説明される側双方にとって難解です。

でも、そうした時に「説明する側」にだけ責任があるというような風潮になっています。

僕はそれはおかしいと思っています。

双方が理解し合うための「前向きな姿勢」を持つことが重要だと思っています。

ただし、それも「双方が理解し合おうと思っている」という前提が必要です。そうした状態にないと何ともなりません。

しかしながら、「消費者側だけが偉い」という前提を持っているとすぐに齟齬が生じます。

「お客様は神様だ」

と思うのであれば、どうして相手の言うことが理解できないのでしょうか。崇められるほどなら、それくらいはたやすくこなして欲しいところです。

神は人間よりすごい存在だと思っているかもしれませんが、

「不完全な、人間未満の神」

というレッテルを貼られてもしかたありません。

そういうわけで、コミュニケーションの前提には、双方が「理解し合おう」と思っている状態が必要になります。

一方が破棄をすれば、もう成り立ちようがありません。

そしてそれは、「説明される側」だけにその権限があるのではなく、「説明する側」にもあります。

京都特有の「嫌やったら帰ってや」の精神です。

かつてのドイツ人的な教養 曙光 190

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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