おにぎり
字を見ただけで温かい気持ちになります。
食べると必ず胃酸過多になる母校の食堂の通称「胸焼けおにぎり」
思わずなぜか年数回は無性に食べたくなる弁当箱の「蒸れたおにぎり」
上海で温めて食べることを初めて知った「全家」の店員との「友情のおにぎり」
おにぎりにはたくさんの思いがあります。
どういう感情かよくわからない感情
仕事柄、お客さんからテキストを配布いただくことがあります。
たいていは文章を書く仕事をされているわけではないので、どうしても文体はキレイではありません。
それでも、なぜか見分けが付きます。
自分で書いたものなのか、誰かほかの人に書かせたものなのか、なぜかわかってしまいます。
職人気質の人は、どうしてもそんな細かい日本語の勉強をすることもなく、自分の仕事を磨いてきた人です。
それでも、なんとか一生懸命に書かれた文というのは、心がこもります。
「文章が下手くそなので、変だったら直してもらえませんか?」
そう言われますが、
「このままでいきましょう」
そういって、漢字の誤字の校正以外は、そのまま使うことにしています。
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おばあちゃんの履歴書を書いたことがあります。
いわゆる老人ホームのようなところは、需給の均衡がとれておらず、すごい数の「お待ち」が出ています。
入所の選考にあたって、簡単な履歴書を求められました。
当然に、大昔のおばあちゃんのことなど僕にはわかりません。
そこでお母さんが、大筋を書いて、僕が仕上げるということになりました。
そして、見せられた文章・文体は、お世辞にもキレイなものではなく、口頭で再確認が必要なほどひどいものでした。
その時に、なぜか僕は泣いてしまいました。
なぜだかはよくわかりません。
少なくとも侮蔑の類ではありません。
「それでも僕が物心ついてから、今まで見てきた母の姿勢はいつも懸命だった」ということを思い出して、感が極まったのでしょうか。
未だによくわかりません。
そしてその時、涙と同時に、そんな母に付けてもらった「学力」をちゃんと人のために使おう、という気持ちが湧いたものです。
そして、難なく入所は決まりました。
あの日のおにぎり
母との思い出話ではありませんが、小学生の時です。
学校の近くの公園のすぐ近くに、「かなり小さいコンビニ」がありました。
その当時、商社系の大手のコンビニがたくさん出店してきている頃で、店の規模や品揃えからいうとかなり苦戦を強いられるようなお店でした。
当時は、駄菓子屋などもまだたくさんあり、最有力のお店ではありませんでしたが、ただ、やはり「遊び場の近く」ということもあって、僕と友達はたまにそのお店に行くのでした。
そして、あるときからラップにくるんである「おにぎり」が店頭に並ぶことになります。
明らかに自作です。価格は100円でした。
一緒に行った友達が「買ってみる?」と聞いてきます。
そして、意を決して僕と友達は握り締めた数少ないお小遣いで、おにぎりを買うことにしました。
レジに行くと、おそらくそれを握ったであろう、「店のおばちゃん」がいました。
経営が苦しいのでしょうか、どうも元気がなさそうです。
それでも雑巾を絞るように、笑みをみせてくれました。
そして、おにぎりを買った僕たちは、その近くの公園で食べることになります。
冷たいので、当然に喉に詰まりますが、飲み物まで買えるほど裕福ではありません。
なんとか胸を叩きながら、友達と二人で食べたのを覚えています。
「あのお店苦しいんかな?やっぱりこれ、昨日の残り飯かも」
「それでもお金にしていかんとやばいくらい苦しいんかな?」
「そうなんちゃう?」
「でもあそこ潰れんの嫌やな」
「そうやな」
「毎日買いに行ってあげよか」
「毎日買ってたらオレら破産やで」
「それもそやなぁ」
「じゃあできるだけ行こ。破産せん程度に」
「そうしよ」
そう言って僕たちは、たまに「おにぎり」を買いに行くのでした。
そうして買いに行くものの、どこかで「おばちゃん、もう無理せんでええで」そんな気持ちを持っていました。
そして、ある時、いつものように公園で二人でおにぎりを食べていました。
「なんか泣きそうやなぁ」
「なんでなん?」
「なんかもう頑張らんといて欲しいもん」
「オレらのこづかいであの店に貢献しても、二人で一回200円やん。たまに虚しなるなぁ」
「そうやなぁ」
「オレらのことどんな風に見えてるんかな」
「まいどまいどおおきに。といえばそうなんやろうけど、店に貢献しに行ってることバレてるんかな」
「そうなると悲しいなぁ」
「いや、いちおう儲かってるしええんかな。200円やけど」
「オレらに同情されてるとか思ってないやろか」
「なんか悲しなるなぁ」
「でもまあええか。たまには行こか」
「そうやな。たまには行こ」
―
数ヵ月後、お店はシャッターが閉まったままになっていました。
そして僕たちは、呆気なく終わった「ほぼ日課」を気にすることなく、また、それまでの日常に戻るのでした。
―
たまにひとりでぶらぶらそこの前を通ると、もう一度あのおにぎりをたべたくなります。
できることなら、そいつとランドセルを抱えながら。
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