その他の点でヨーロッパがどれほど進んでいようとも、宗教的な事物については、ヨーロッパは古代のバラモンの素朴な囚われない心にまだ到達していない。
―
さしあたりわれわれは、インドで、思索者の民族の間で、すでに数千年以上前に思索の命令として実行されたものを、ヨーロッパが取り戻すように気をつけよう! 曙光 96 一部抜粋
ニーチェによる「曙光」一書の締めくくりは、インドにおけるバラモン、そしてブッダの記述が見られ、ヨーロッパにおける心に関する考え方自体への警鈴が示されています。
さて、「この印において汝は勝つであろう。」ということで、「最悪の敵はどこにいるか?」で少しだけ触れたゼロの錯覚について書いていきましょう。
ゼロの錯覚
不足感の正体はゼロを想起するというところにあります。
しかしゼロという概念は数学的空間の中にだけあり、記憶の連続性の中での記憶や想像とのギャップがあった時に想起される錯覚です。
なぜなら、そこにそれがなければ、ゼロではなく、何もないということになるはずだからです。ということは、本来認識の対象となるのは、在るように見える対象の1であり、ゼロは想像上のゼロでしか無いということです。
意識の中で「あるはずだ」とか「あって欲しい」という、現実空間以外での意識的な情報空間での妄想があるからこそ、現実の空間を見たときの判断としてゼロという概念が想起され、不足を感じるというのが本当のところです(不足感や願望は「過去からの因果」という思い込み)。
「前はここにあったはずなのに」とか、「予測ではここにあるのが当然のはずなのに」とか「みんなが持っているのに自分の手元にはない」という風に、過去や未来、他者との相対的比較の中からゼロが出てくるはずです(イメージをともなわない言葉だけの網)。
だから、ゼロは意識が生み出した虚像でしかなく、現実世界にゼロという概念はありません。だからゼロは錯覚なのです。
そしてそのゼロという錯覚を当然のものとしているからこそ、不足を感じ煩悶するということが起こり、そうした不足感が今の心の受け取り状態に影響を与えるという感じなります。
それを一貫して行っているものは何か、それが自我です。
無と空は同じではない
ということで、ゼロが錯覚であるのならば、無という概念もありません。無と言うのは意識が作り上げた相対的概念でしか無く、在るということの対義語としてのラベリングです。
しかしそんな有や無に関しても、本当に「有として在るか?」というところを考えてみると、「ある」わけではありません。
その例として最もわかりやすいのは、「川」でしょう。
川を眺めた時、そこに流れる水は常に流れています。
だから、どれを指して川であるのかを示すことはできません。
ある対象、ある範囲を示したところで、それは次の瞬間に変わっているからです。
しかし、川を見ると、それが川であることを捉えることができます。
何をもって川であるかということを示すことはできませんが、この目で見る限り、そこに川があることを捉えることができます。
だから川が何か、どれが川かを示すことができなくても、川という概念を捉えることができるという感じです。
そして、そうした概念を捉えるということに関しても、この目で見て、この耳で音を感じた上で、捉えているというだけの話です。
マトリックスのようにそうした視覚情報、聴覚情報を何かの信号で送られてきている場合にも同じような捉え方をするはずです。
そうしたように在ること自体も情報状態を捉えているという領域上に証明することができないという感じです。
しかしそれは、ゼロの概念が錯覚であるように、在ることではないということを根拠に「無」ということにすることはできません。
なぜなら、ゼロは意識が作り上げた虚像であり、同時に全くの無であるのならば、在ることは証明できないものの、「そこに在るような感じがする」というような認識自体のきっかけすら起こらないからです。
無とイコールではありません。もちろん有ともイコールではありません。これがいわゆる「空」です。
そしてこれは川に限ったことではありません。
川や雲と同じように
それが川であれ、雲であれ、独自の意志を持って自分でやりたいように、なりたいように姿形や動きを決めているわけではありません。
太陽の光による熱エネルギーや湿度、付近の山々、いろいろな環境要因がある中で、他との関係性の中で自動でその姿形や動きがなされています。
それは生き物に関しても同じで、両親や生活環境、人との関わり合いや環境の中から得てきた考え方など、自分のオリジナル情報は一つもないまま、他との関係性の中で、情報状態が自動的に一番安定するように最適化されています。
しかし、川や雲と同じような事になりつつも、この心は苦しみを感じたり喜びを感じたりしています。
「この私」は「この私」でありながら私以外のものによって形成され、私以外のものとの関係性によって変化しています。
そしてその変化を感じることで苦しんだり喜んだりしています。
自分の意志でしたようなことだと思っていても、それまでの外部からの情報が収束した地点である「この私」が自動で演算してはじき出した結果が動機となり、そうした情報状態によって何かをやらされただけという風に捉えることもできるはずです。
そしてその結果をこの心は受け取っているだけ、という感じです。
悪夢から目覚めるように
それは一つの柵であり、その状態にいる限りは、他の関係性の中で自動で動機が生まれ、行動を決定させられてしまいます。
自分では一切コントロールできない領域で、この心が受け取るものが決められてしまうのです。
それではまるでストーリー展開を決められない悪夢の中にいるようです。
悪夢を悪夢だと思えずに現実だと感じ、実際に恐怖や苦しみを感じたりしてしまいます。
だからそれから脱するには目覚める必要があるのです。
悪夢から目覚めた「覚者」となった時、悪夢はただの悪夢であり、その夢を現実だと思う錯覚から覚めることになります。そうなると映画に臨場感を感じて涙することが無くなるように、ただの傍観者となり、全ての煩いは煩いではなくなります。
そしてコントロールできない夢から覚めたあとは、見るものを決めることができるようになります。他との関連性と位置づけていたものとの分離はなくなり、統合された空間の中で、関係性を決めることができるようになります。
しかしながら決めることができるのならば、そうしたコントロールすら必要ないということを体感します。
よって「コントロールする必要がある」という本能レベルの恐怖心の錯覚自体が消えて無くなるのです。
「この印において汝は勝つであろう。」 曙光 96
最終更新日: