日常から離れ、静止することによって見えるものがあります。それは特に非日常的な体験というものではなく、独りの空間をある程度保って静止するといったようなものです。そうすると行きたい方向が見えてくる場合があります。
例えば、「少し休みを取ったとしても、特にやることがないからなぁ」と思ったりして、あまり一人で独立した空間を持つことを意図しないというようなことがあります。
「周りとの関係を調整してまで、わざわざ休みを取らなくても良い。そうした間を設けるにあたって、周りに色々と言って回る方が面倒だ」というような感じです。
しかしながらそれすら、一種の日常への疲弊から生じた「断念」のようなものであり、行きたい方向を見えなくするものであったりします。
「特にやることがないからなぁ」
「特にやることがないからなぁ」と本心の本心で思っているのではなく、奥の奥にある本心にたどり着くエネルギーが無いからこそ、職場や家庭内での対人関係の調整が面倒になり、「休みを設けるのも面倒だ」というようなことになっていることがある、という感じです。
数人の人がいるオフィス空間で何かが煮詰まったとき「ちょっと散歩に行ってきます」ということが許されるのか、ということを考えれば、仕事を「労働時間」で括っているような職場であればなかなかそれは実現しません。端的にはそのような感じです。
本心に蓋をしてしまう
そしてそれは、仕事中ということ以外でも、もっと大きな範囲で、生活そのものにおいて「間を設けない」ということから、考えが狭い範囲になっていることがある、ということがあります。
目の前の課題の解決といったある種小さく狭い範囲ではなく、もっと大きな「本心」に蓋をしてしまうというような感じです。
そして取り留めて切迫したような問題ではなさそうな感じがするので、自他共に「独立した空間で静止すること」は意味がないと思い、意図的にそうしたことをしなくなってしまいます。
何にも貢献できないような時間は無駄という思い
比較的若年の頃は、一人旅であったり、学校や仕事の帰りに公園でボーッとしたり、ということをしたりしますが、歳を重ねるにつれてそうしたことをしなくなります。
その奥には、一種の拡大した自我の空間である「家庭」や「会社等の所属している組織」のことをある程度の高い重要度で検討してしまうから、といったものがあります。
単純には、はっきりとした余暇の娯楽や休養でもなく、そうしたものに貢献できないような時間は無駄であるというような考えが浮かんでしまう、といった感じになります。
「コミュニケーションを遮断したり、何かの作業を止めてまですることではない」というようなことを思ってしまうというようなものです。
保存の方に意識が向くとロクなことにならない
しかしながらそれは一種の罠であり、本質的に何がしたいのかとか何が好きなのか、どういった未来を望むのか、ということがどんどん見えなくなっていってしまうという感じになっています。
逆に独り空間に没頭しすぎると、時に社会が嫌になったり怖くなったりします。そうした場合は、逆に外に出て何かしらと関わったほうが風穴があいていきます。
自分の空間に入り込みすぎて、それを守ろうとしてしまい、自分の空間を乱すものを排除するか避けてしまうようになります。
それらを統合して考えると「保存の方に意識が向くとロクなことにならない」というような感じになります。
周りを気にしてあまりに本心に向き合うことを避けるというのも現状維持という保存の方に意識が向いています。本質的な「行きたい方向」に意識が向くと、現在周りにいる人達との空間が壊れるのではないかということを思ってしまい、少しの暇も自分に与えないというような感じになってしまうというような構造になっています。
「別にやることはないし、やりたいこともないからなぁ」
というのも単にそうした保存に慣れてしまっているだけだったりもするわけです。
独立した空間で静止すること
ある程度まとまった時間、独り空間を味わうと、「ポッ」とやりたかったことが見えてきたりします。
それは、どこかからいきなりやってきたというわけではなく、最初から思いとして保持していたものが表面化しただけ、という感じなので、やはり全体的な構造を見ると「本心に蓋がされていただけ」ということになります。
別に蓋をしている気がなくても、妥当な選択をして過ごしていると知らずしらずのうちに勝手に蓋をされていってしまう、というような感じになっています。
なので、いつもは誰かと行っていたとしても、散歩に行くとすればたまには一人で、旅もたまには一人で、というのが良いと思っています。
意味がなさそうでも、「意味があるかないかは、それをした後に決まる」ということを思って、たまには無理矢理にでも独り空間を満喫すべきであると思っています。
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