課題を少し寝かして近似解を得るというようなものについて触れていきましょう。
あまりに対象に意識が向きすぎていると、頑張っているようで実は効率が悪いということがあります。
傍から見ると「頑張っているなぁ」と思われるかもしれないものの、それは外からの印象であって、本質的にそうした頑張りが解決に適しているかどうかは別問題であるという場合があります。
逆にサボっているように見えてその方が効率が良いという場合もよくあります。
そうした「最適な感じ」を阻害してしまうのが、時間単位の考え方と体育会系の空気感です。
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そういえば、今年は「毎年のように4月の20日くらいから末にかけてやってくる『春に来る涙』」がなかなかやってきません。
毎年のように「その前の冬のガチガチ」をほぐすようにやってくるのですが、今年は若干多忙で、体自体がそのタイミングを逃してしまったのでしょう。
おかげで鼾は日に日に力を増しました。対策にと鼾を抑えるテープを貼ろうものなら逆に顎がおかしくなり、血流の悪さから奥歯の歯茎までダメージをくらってしまいました(今では改善しています)。
こうした状況になると、人がよくわからない雑さで接してきた時、1秒間は怒りが生じ、その1秒後には諦めというか呆れというか手放しというような感じになったりします。
別に体がキツイわけでも苦しいわけでもないですし、何か悩ましいような感じでもないのですが、そういう感じなので、基本的には無意識モードで働いたりしています。
課題を2日くらい寝かす
その基本形は、「課題を2日くらい寝かす」というようなものです。
すぐに対応できるようなものでも、あえて相手には待ってもらいます。
そして自分でも特にそれについては考えません。
で、2日後くらいにふと取り組みだすと、最適かどうかはわかりませんが、まあまあ最適な近似解が勝手に出来上がっており、あとはそれを作業としてこなすだけというような感じになっています。
モーツァルト的に「先に曲はできていて、まだ楽譜として書けていないだけ」というような感じです。
一応これは今の立ち位置だからこそ許されているような部分もありますが、そうでないにしても工夫次第でなんとでもなりそうなものでもあります。
「2日くらい寝かす」というようなものは一見のんびりしているようですが、ものによっては初心者なら1年かかってもできないようなことであるかもしれませんし、同じような立ち位置にいる人にしても視点が低い場合は、一生発見できないことかもしれないようなことである場合もありえます。
パッとひらめくようなタイプのもの
対象としては、発案や決断のようなもの、検討材料としての対象範囲が広いものなどがほとんどですが、こうしたものは、ちょっとずつ段階を踏んで最後にたどり着くようなものというより、いきなりパッとひらめくようなタイプのものです。
こうしたものは「本当にやっているのか?サボってるんじゃないだろうな?」という変な体育会系的プレッシャーを与えられ、「やっている姿」を求められてしまうとなかなかうまくいきません。「やっているフリ」をするのがせいぜいです。
つまり「やっています」という証拠を出すための言い訳の方を考えてしまうようになります。
それは本題である課題解決には役に立ちません。
しかし、時間単位の給与の考えや納期というような概念を出されると、そうしたパフォーマンスや言い訳の方ばかりの方に意識が向いてしまいます。
納期は大半が曖昧
だいたい納期というものは曖昧なものです。
「それぐらいだろう」というような予測がほとんどです。
年の変わる1/1や年度が変わるような4/1、決算期日や何かの式典などであればそうした納期の意味もわかりますが、だいたい年度の途中の中途半端なものは、「全体としての計画のうちの、この部分はこれくらいまでに」くらいのものであり、その全体としての計画も期日的なものに関していえば本質的には曖昧なものであることがほとんどです。
「決めておかなければダラダラしてズルズルになってできずじまいになる」とか、「その日に終わらせておいてくれたら、自分は気がかりがなくなってその次の休みはゆっくりできるのになぁ」というのが本音ではないでしょうか。
ということで、そうしたものは曖昧なので、それほど気にする必要はありません。
ということなので、そんなに必要以上に相手のペースに合わせる必要もないというような感じになります。
近似解
また、厳密な解、最適解を求めようにもそれが無理である場合がほとんどです。環境は常に変動しているため、そうしたものを求めることが野暮というものですし、最適解に固執しているとタイミングを逃してしまったり、無駄なエネルギーを使ってしまいます。ということで、だいたいの近似解で十分なわけです。
しかし、「一生懸命たくさん考えた」ということを評価対象にする人もいるので困りものです。
「どれくらい考えたんだ?」というような発想は体育会系です。
発案や決断は筋トレではありません。
何も調べず考えずということも問題ですが、案自体よりも「どれくらい力んでエネルギーを使ったのか」ということに重きを置くというのは馬鹿げています。
それに力むと見える対象範囲が狭まって、より良い案すら生まれないということが起こりえます。なのでそうした評価の仕方は害ばかりです。
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相手のペースに合わせずに2日寝かせたりすると、当日いきなり考えてやったりすると3時間かかることが、当日10分、2日後10分で終わったりします。
というような感じで過ごすと、それほど憂いはありません。
お疲れ様です。
一生懸命たくさん考えた、どれくらい考えたんだ?
についてですが、「物事にいくら時間を費やしたか」という
作業量が成果に比例するとアホみたいに考えていました。
それを最近になり大幅に作業量を減らした所、作業時間短縮は言うまでもなく、課題がよりクリアになり「勝手に背負いこんでいた精神的な負担」も減りました。
課題を2日くらい寝かすという点については「あれ?これってなんだったっけ」と思い出すのに苦労した事が頻繁にありましたが「思い出せない=さほど重要でないだろうから課題ごと消す」という少々乱暴なやり方でやはり負担が減りました。
いかに減らすかを考える事でストレスもそれに比例して減っていく事方向になる様、努めていきたいと思います。
コメントどうもありがとうございます。
精神的な負担が減るという点は大きいと思います。
さらに「思い出せない=さほど重要でないだろうから課題ごと消す」というのも負担減には大きく影響しています。
重要なことなら、誰かが覚えていたりしますし、その程度の重要性なら、その場で考えたことでも十分だったりします。
稀に相手も忘れていて、完全に議題から外れていたということもあります(かなり後にメモを見てそんなことを思い返したりします)。
入社したて等々、物事に慣れないうちは、どれくらい考えたかとか工夫したかというようなことを求められるのはわかりますが、その時の感覚を保持し続けることは時に弊害になるということはまた面白いものだと思います。