これで2201記事目になります。ブログ創設から2201回目の投稿ということで「第2201回投稿記念」です。小6事件という個人的な「続きもの」を投稿していたので「第2200回投稿記念」ではなく第2201回目の投稿となってしまいました。
前回の第2100回投稿記念は、2023年1月18日だったので、前回からの101記事は、1年半弱かけて投稿したという感じです。またローペースで、かつ、アフォリズムで少し数を稼いだ感はあります。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。
また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。また前回から今回までの間にも単純にファンメッセージのようなものや応援メッセージをいただいたりもよくしました。ありがたい限りです。
PC、タブレットなど機器の電源を切ったりする習慣ができたので、ご連絡が遅くなることもありますがご容赦下さい。なお、contact以外からのご連絡は確認が大幅に遅れることがありますのでご留意いただければと思います。
それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。
アクセス状況
アナリティクスがGA4というものになり、見方があまりよくわからず数値も大雑把になっているので簡単にだけ触れておきます。
前回の2023年1月18日から2024年7月10日までの間のユーザーさんの数は、約5.2万名でした。前期間(同一日数)を比較しようと思いましたがGA4への移行の関係で数値があてになりませんでした。
ユーザーさんのエリア(23区を市扱いした上での都市別)は、大阪市、札幌市、横浜市、さいたま市、名古屋市、福岡市、神戸市、京都市、新宿区、松江市という結果になりました。
その他の性別、年齢もデータが取れていないようでしたのでひとまずは置いておきます。サイト内検索も、現段階では置いておきます。
さて、そろそろ投稿記念の回らしくより個人的なことについてでも触れていきましょう。
「女が歌う」という不快感
まああえて何の曲かを明確にしないままにしておきましょう。
「女が歌うな」
と思う曲があります。
そんな殺意が出てくるカバーがラジオから聞こえることがあります。
所詮、「家庭に逃げれば、子育てさえしていれば勝ち」のような空間にいる無責任なやつらが、「自信を持てたらいいのにな」という男心を何だと思っているんだ、というような気分になります。
そういえば結構前ですが、ボーカル不在であることをいいことに、女優のようなよくわからないものをフロントに立てて、メンバーをバックバンドかのようにしていたことがありました。
「本家のメンバーは、死んだ魚の目をしているじゃないですか」
と思ったりしました。
誰ですか?許可をしたのは?
会社が不況で過去の遺物を使って小銭稼ぎ?
どうせ責任範囲を自分で決めて家庭のやりくりさえしていればいいと思っている無責任なやつらが、重圧で潰れそうな男の心の投影を何だと思っているんだ?
と思っている同年代の男性諸君はいるだろうか?
いないなら、「この国、この時代は終わった」というような感想です。
まあ、感想ですけど。
ただの感想ですけど。
ただ、ただの感想ですよ。
そんな感想を楽しんでいるだけですからね。
たまにいただくメッセージより
意外なのですが、いただいたご連絡で
「口が悪い時の回も好きなんです」
「怒りを全開にされている感じがホッとします」
ということを書いてくださる方がたまにいらっしゃいます。
ありがたいですね。
たいていは、不快感を外に出すと、トラブルになる、俗に言う「炎上する」という感じになります。
炎上って…
したから何ですか?
と思っています。
ちなみに僕は「悪口耐性がある」というどころか、「罵詈雑言を浴びせられても、それに爆笑する」という関数が出来上がっているので、ノーダメージどころかエンターテイメントになる可能性すらあります。
新入社員時代、クレイジーケンバンドの横山剣氏のような天才詐欺師の先輩に、
ミナミの帝王時代の山本太郎氏のようなテンションで、
「お、研修の時に肩で風を切ってたbossuくんやん!」
と、やってきて
「お、で、どうなん?数字。あ、全然あかんやん。研修の時にはこんな感じやったのに」
と、2700の「鎖骨がティリティ」のマネごとをされ、
鎖骨がティリティを継続しながら、
「なぁ。こんなんやったやん」
とされたら、爆笑しませんか?
相手は笑わすつもりなんてないんです。
でもこっちは面白いんです。
それが「相手に勝っている」ということですね。
迷いと不安
「苦」つまりドゥッカは、基本的に思考からやってきます。
そしてあれはどうか、これはどうかという選択肢が多いと迷いが生じ、不安が形成されます。
何となくやることは分かっているのに前に進めない、というものも辛いものです。
そんな時に、そのやること、やりたいことを「それは執著で抑制されるべきものだ」という思考が起こることがあります。
ただやるだけの時は、変な苦しさはありません。疲れのようなものはありますが、迷いによって生じる無駄な苦しみはないという感じになります。
しかし何かしらの葛藤がある時、迷いがあります。そして不安や苦しみが生じます。そしてそれを避けるために「思考」が都合よく執著という概念を使うこともあります。
もちろんその場合もあります。
しかし思考による「葛藤、混乱回避のための概念の悪用」の場合もあります。
「何となくやることは分かっているのに前に進めない」という時、客観的には怠けているように見えますが、本当はすごい戦いが繰り広げられています。
しかし、たいてい思考対思考でやりくりするのでループに陥ります。
そんな時、すべてを手放していくと、一気に現実は違う方向に展開していくのですが、それはなかなかうまくいきません。
思考を丸ごと言語化して書き出す
そんな時は、思考を丸ごと書き出して形にすると、「手放す」「ただ前に進む」という方向にセットされることがあります。
思考は頭の中だけでできるからと、そのままにしていてはループするだけになりやすいという特徴があります。
「言語化する」
というのがそれを突破する一つの方法になります。
「めんどくさい」
と思うかもしれませんが、そのめんどくささを少し乗り越えるだけで何年もぐるぐるしていたことが、ほとんどの確率で解消するのならばそれくらいはいいのではないでしょうか。
もちろんそれは「安らぎ」の絶対条件ではありません。
個人的には、ひたすら書き出すことは感情のエネルギーの昇華、思考の整理、トラウマの発見と解消といった利点がある他、情報過多の現代においては良質のヴィパッサナーになると思っています。
不安なり問題なりを徹底的に細分化していくと解決策が見えてきたり、「不安や問題自体が大した事ない」ということに気づいたりします。
本音なり頭に浮かんだことをどんどん吐き出していると、世間では良しとされる「合理性」が抑制されていきます。
合理性を抑制することで物事はうまくいく
ところで、この合理性が無くなれば無くなるほど、物事はうまくいきます。
それは論理矛盾になりそうなものですが、「それでは論理矛盾になるだろう」というのがそもそも合理性の罠です。
物事を真面目に捉えて真面目に考えてしまうと、ロクでもない結果になることがあります。
例えば、何かの会合で「同性性欲者を認めろ」というような講演を聞かされたとします。
受け入れろ、認めろという圧力がかかったとします。
それに抵抗が生まれた時、正論で返そうとしてしまいます。
そうしてもいいのですが、それは一種の真面目なやり方です。
会場を出て、みんなが神妙な面持ちになっている時、どうすればその場を楽に快適に過ごせるでしょうか?
正論で相手をやり込めることでしょうか?
それでも構いませんが、そんなことをしていると、人と揉めるわりに実りはなく、さらに相手に人生の時間や楽しさを奪われてしまいます。
もしくは、みんなで「違うよね論」を繰り広げることでしょうか?
それはそれでいいですが、変な怒りが増幅してしまうかもしれません。また、その「違うよね論」を繰り広げている「みんな」の中に当たりの人がいる可能性もあります。
そうなると揉めるか悲しませてしまうかということになる可能性もあります(悲しむのは相手の勝手だとは思います。さんざんそいつ等に痴漢のようなことをされてきた僕としては、公の場で「認めろ」などとほざく方が僕を傷つけるじゃないかと思いますが、残念ながら傷つきません。ただ、僕が傷つかないからと言って調子に乗るなとは思います。しかし乗っていただいても構いません)。
僕ならどうするか?
というのを合理性を抑制して考えた場合
「あードドスコスコスコ、ドドスコスコスコ、ドドスコスコスコ、ラブ注入!」
と、「ひとり楽しんご氏」を気が済むまで満喫しますね。
周りの反応などどうでもいいのです。
「プライド…プライド…プライド…
アーイムプラウド♪!!!!
あードドスコスコスコ、ドドスコスコスコ、ドドスコスコスコ、ラブ注入!」
自分の気が済めばそれでいいのです。
ひとりで満喫して、一人で爆笑して、終わらせればいいのです。
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それでは引き続きご愛読くださいませ。
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