毎年の恒例になりつつある年始の福井ツアーですが、あまりどこかしらに行くという感じではなく、ぼーっとすることを目的としています。ただ、今回はとりあえずこの「人道の港 敦賀ムゼウム」にだけは行こうかなぁとだけは思って向かいました。
基本的には、「暇な人が映える写真を撮るために行く系の観光」というものはあまり好みではなく、どちらかというと、爆睡ツアーとかご当地の日常などに触れる方が好きだったりします。
それ以外の場合は、何かしらの人物や作品や深いところでの文化に関して関連性があり、その対象への思い入れが動機とならないと、わざわざその場所には行かないという感じになっています。
ということで今回は、十代後半から「カッコいい男性のモデル像」として日本人部門トップに君臨する杉原千畝氏の影響から「人道の港 敦賀ムゼウム」に行きました。
〒914-0072 福井県敦賀市金ケ崎町1-44-1
彼と彼に救われたユダヤ人のさらなるリアルを少しでも垣間見ることができればという感じです。
館内は撮影不可のため外観のみになりますが、外にはイスラエルの国木オリーブの木が植えられていました。
人道の港 敦賀ムゼウムの展示テーマは、1920年のポーランド孤児と1940年の「命のビザを持ったユダヤ人難民」のお話です。
杉原千畝氏が発行した命のビザを持ったユダヤ人難民が、シベリア鉄道の果て、ウラジオストクから船に乗り、たどり着いたのがこの敦賀港であるということで向かいました。
命のビザ
ユダヤ人難民の「命のビザ」の概略は次のようなものです。
1940年(昭和15年)年当時、センポスギハラこと杉原千畝氏は、リトアニアのカウナスにある日本領事館に領事代理として赴任していました(前年より)。
7月18日の早朝、ドイツ軍侵攻により隣国ポーランドから迫害を逃れてきた大勢のユダヤ人難民が領事館前に押しかけました。
何事かと代表者に話を聞くと、迫害から逃れるため、日本の通過ビザ(査証)の発給を求めているということがわかりました。
数人分であれば自身の裁量で発給できるものの、大人数ともなると日本の外務省の許可が必要となるため本国に問い合わせをしますが、当時日本はドイツと同盟関係にあり、当時外務省はビザ発給を不可としました(1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、そしてこの出来事の約2ヶ月後の9月27日には日独伊三国同盟が締結されます)。
何度か外務省に問い合わせしますが、いずれも大量のビザの発給は認めないという回答でした。
しかし毎日毎日領事館前にはナチスの魔の手を逃れるために命がけで訴えるユダヤ人難民たちが押しかけてきます。
そこで杉原千畝は、ナチスなどからの身の危険もある中、外務省に背く形で通過ビザの発給を行うことにしました。もちろん独断です。
毎日毎日腕が痛む中でも通過ビザを書き続けていましたが、ついにソ連と外務省から退去命令を出され領事館を追い出されます。その後もホテルや駅などで最後の最後まで通過ビザの代わりとなる「渡航証明書」を発行しました。
そしてその通過ビザを持ってユダヤ人難民たちが、シベリア鉄道で移動しウラジオストクを経てたどり着いたのがこの敦賀港です。
結構有名なお話ですが、その命のビザのお話の詳細は、公式サイト等々をご参照いただければと思います(人道の港 敦賀ムゼウム 公式サイト)。ということで、覚書程度にセンポスギハラこと杉原千畝氏のことと、その場所で新たに感じたことなどを書いていこうと思います。
「センポスギハラ」こと杉原千畝氏のこと
ちょうど、10年近く前にイスラエルに行きましたが、渡航先としてその場所を選んだ理由の2割位は杉原千畝氏の影響です。もちろんメインは、アブラハム系の宗教の聖地ということで、どんな感じか死ぬまでには行ってみようというものでした。が、それとは別にイスラエルという国は、彼の影響からか親日国であり、第二次世界大戦後に日本が一番最初に国交を結んだ国でもあります。そんな国の人たちが日本人である僕にどのように接するのかというところに少し関心がありました。
その名前はイスラエルでは一番有名で、日本人であることを告げる度に「日本の若者か。センポスギハラは知っているか?」というようなことを聞かれました。
その栄誉は現代でも続いているということを実感しました。本音でいうと、そのおかげで自分はある意味安心してイスラエルを歩けるということも思いましたし、本当にすごいなぁと思いました。
「作り物ではない本物のすごさ」
とか
「演出なしのカッコよさ」
の確認に行ったという部分があるわけです。
もちろん、ユダヤ難民が日本にたどり着き、命が救われたということに関しても、杉原千畝氏だけの尽力ではなく、それに関わる人達の勇気と労力の賜物であることは言うまでもありません。
しかしやはり最初の決断が無い限り、全ては始まらなかったので、英雄と呼ぶにふさわしいと思っています。
そして、「若干ビビりながら」でも「良心に従う」というところがカッコよく、十代後半の頃、男性タレントや男性アイドルなどがキャーキャー言われている中、「そういうカッコよさでいいのだろうか?」と思っていたところに、ドカンとやってきた文句なしのカッコよさでした。
「なりたくない大人」の対極にある社会生活の中で目指すべき理想の大人像です。
何かで読みましたが、そんな彼もやはり、日本では「ユダヤ人からいくらもらったんだ?」というような週刊誌レベルの嫌味も言われたようでした。いつの時代でもそのあたりは変わりないようです。
しかし結末は、「素晴らしき哉、人生!」のようになりました。
というところもまた美しさを感じます。
人道の港 敦賀ムゼウムの展示から
ユダヤ人難民がシベリア鉄道で移動している最中、ロシアの秘密警察によって強奪に遭うという感じはリアルさを感じました。
なぜなら、勤め人の時の同期が学生時代ロシアに留学中、「日本から届いた荷物の中身が空になっていたということが複数回あった」ということを聞いていたからです。
そういうわけで日本の感覚で外国を捉えてはいけないと思っていたので、現代でもそうした事が起こるのだから、戦時中なんてもっとひどいだろうということは想像に容易いという感じです。
そんな過酷な旅を終え、敦賀に着いて入った銭湯はたまらんだろうなぁと思います。
奪うものと与えるもの、寒さから温もりへ、というコントラストがまた、敦賀に着いたユダヤ人難民の方々に、HeavenやParadiseという印象を与えたのでしょう。
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ヤン・ズヴァルテンディク氏や根井三郎氏、タデウシュ・ロメル氏とのインテリ的な橋渡しもいいですね。頭はこうしたことに使うべきであり、ロクでもないことに使ってはいけないという感じがしてしまいます。
何よりこれら方々のカッコよさが真の目指すべきカッコよさだと思っています。
歴史上の偉人と呼ばれる人々の中には、結局勝者側から見れば偉人で英雄というだけであり、敗者側から見ればただの侵略者や殺戮者であるという構造を持っている場合があります。また、発明に関しても、結局有用な部分よりも負の遺産的な部分が大きかったりと、諸手を挙げて称賛することができないという場合があります。
また、かなり古い話であれば、文献自体が勝者の論理で書かれている場合もありますが、このお話は、当時難民だった方々が存命であり、まさに生き証人がいるということで信憑性の面でも安心です。
正義の面から言えば、国家に対しては逆らっているので不正となりますが、国家を超えた人道の視点から見れば正義となるお話です。
なので、ユダヤ人難民を救った方々は、二律背反的な抵抗なくカッコよく思える人たちということになります。
そんなわけで、それら方々を代表して「カッコいい男性のモデル像」日本人部門トップが杉原千畝氏という感じになっています。
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