先日、「思いっきり本を読んでください」という記事を書きましたが、僕も少しだけ読書週間を設けていました。パソコンの光より本を読んでいる方がまだ目はマシです。
何かをやろうとすると、なんだかんだで目と指先を使わなければならないため、休みの日にも休まりません。
特にもう調べるような、知識を得ようとするような読書の仕方はしないのですが、素早くぱぱぱっと沢山の本を読んでいます。
やはり、ある程度の情報が頭に入っていないと、どのような現象を目の前にしたところで、やはり何もわからないという結果が待っているのかもしれません。
情報を得ること自体は無害のはずなのですが、気をつけていないと、その情報に洗脳されてしまいます。
一度洗脳されてしまえば、それを否定する情報をハナから受け付けなくなる危険性があります。
基本的には「それがどうした」と思いながら情報は収集すべきなのでしょう。同時に一応疑問符を常に持っておくことです。
ただ、疑問を持ったところで、変に納得するような答えを見てしまうと、一気に心が奪われることがあります。だからこそ、疑問を持ちながらでも、そういった危険性には注意する必要があります。
本を沢山読んで、本の中の知識を1つずつ増やすこともいいですが、たくさん読むと、そんな緩やかな知識の増え方だけで終わらないようになります。
タイトル通り、毎日謎が解けるようになります。
この一、二年くらいは、毎月1つ2つ程度しか「そうか、そういうことか」という瞬間はありませんでしたが、読書週間中は毎日5個から10個くらいそのような瞬間がやってきました。
大人になってから勉強をすることをしなくなる人が多いと思いますが、それはもったいないと思います。
小学生から中学生になった時、小学生の時の自分が子供に見えるはずです。しかし社会に出たからといって年数に比例してそのような成長があるかというと、ありません。
ほとんど同じようなことの繰り返しで、しかも頭を使わずに条件反射で繰り返しているだけで、成長する原因というものはほとんどないからです。
普通は10年もあれば、10歳の子供が20歳になるくらいに成長できるものです。しかしながら、50歳の人が惰性で生活していても、そのレベルでの成長はありません。
究極的な話をすると、3年とか5年、外界との接触を断つくらいで勉強すれば、10歳の子供が30歳の大人になるくらい成長することができます。
しかし効率の悪いやり方だと、本当に5年位かかってしまいます。本来、これは数ヶ月で十分に可能です。
日常にいかにロスが多いかを見渡せばすぐにわかります。
1時間の勤務中、本当に仕事をしているのは何分でしょうか?
本当に頭を使っているのは何分でしょうか?
まずは「1つずつ丁寧に」という幻想を捨てることです。1つずつのことしかできないのは、車の運転が下手で前しか見ずに運転するおばさんと同じです。
毎日謎が解けると、やはりおもしろいものです。
一つの方向からしか物事を見れないと、その他の方向は文字通り死角、盲点になります。しかし、俯瞰してみることができれば、幾通りもの因果関係が見えてきます。
「ゆとり」は大半が愚か
先日、従業員採用の面接を行いました。
ゆとり世代ばかりだったのですが、全員不採用です。
使えない従業員を雇うことは、企業としてはゼロどころかマイナスです。だから雇いません。
ゆとり世代にも優れた人がいることも知っていますが、当たる確率はかなり低いと思います。こうした意味で、大企業は大変だと思います。
使えない、馬鹿、そのような言葉はあまり的を得ていません。
「愚か」です。
彼らも被害者といえば被害者ですが、私企業においてそのような人を救済する義務はありません。
以前、女の意見は自分の都合という旨の記事を書きましたが、まさに単一方向でしか考えられないパターンばかりでした。
もちろん相手にも都合があるでしょう。しかしこちらにも都合があります。その双方の都合を加味して考えられるタイプの人が一人もいませんでした。
ついでに言うと、やはり消費者の域を出ない面が多々ありました。
一つのカルチャーショックを受けました。
彼らと論争する気はありません。
しても、そもそもゆとり世代と関わる必要が無いのですから、決着も付けなくて良いということになります。
よくゆとり世代は「言わなければできない」と囁かれますが、つまりは、条件反射の訓練をしないと何もできないということです。つまり頭を全く使っていないということです。
算数で言えば、1+1=2、1+2=3…とすべての問題に対して、暗記をしていかないと解けないという具合です。厳密には、それは解いていません。しかし、+と=と数の意味がわかれば、どのような足し算でも解けるようになります。指示されないとできないということは、教えてもらっていない、3+5=が出てきた時に、何もできないということです。
だから「愚か」です。訓練されたことを知識として持っていたりはするでしょう。しかし、それを包括して考えるということをしてきていないのだと推測されます。
しかし、彼らも被害者といえば被害者です。だから憐れむべき存在ではあります。現状が愚かでも、そこから脱却することは十分に可能です。
ただ、僕にその義務があるわけではありません。だから雇わない、それだけのことです。
謎が解ける瞬間
様々な謎が解ける瞬間は、何かピッタリの答えが知識として入ってくる、という瞬間ではありません。
様々な情報が組み合わさって、一段高い抽象的な概念に統合された瞬間にそれより具体的な事柄、つまり下層の事柄の謎が一気に解けるということです。
1つずつの謎を1つずつ解くわけではありません。ある知識によって、謎が解けたように思うことは、厳密に言えば謎を解いたことにはなりません。
最終更新日:
ゆとり世代でやはり視野が狭いと思ってしまう今日この頃です。
俯瞰して物事をみれるようになりたいです。
レポートも仕事も山を作っては崩してみたいな感じで[いいもの]を作るがために何時間もかけてしまうことが多いです。
こんなに馬鹿ならプロジェクトを任されても、期待に応えられないと思います。
愚かさを克服するには日頃から、仕事一つ一つの本質を考えるとともにどうすればより効率的にできるのかを考えていくことが大事なのでしょうか?また読書で考える材料を集めるというのが一番合理的ですか?
素直でいい人も結構多いとは思いますが、やはりハズレると大きくハズレるという印象があります。とりわけ「昭和」が云々などと言う場合は、ハズレ感が強い印象があります。
さて、既にされていることかもしれませんが、レポートは先にコアとなる論旨を確定させつつ全体の抽象的な印象を作ってから構造を具体化していくとすんなりいくと思いますよ。
仕事のみならず、様々な本質を考えてみたり、部屋のものをひとつ手にとって、「どうして今ここにこれがあるのか?」という理由を考えられる限り考え尽くしてみるというのも良い訓練になると思います。
読書は材料の収集に最適ではありますが、「強烈な動機」に沿った感じで集めるのが最も良いと思います。
それは例えば、「嫌な思いをした」ということから始まっても構いません。
その他、古今東西の名著と呼ばれる小説は、論理と感情の面が有機的に表現されていたりするのでおすすめです。
しかしながら、現実の上で、今目の前にいる相手が何を感じ、どうあって欲しいと思っているか、というような想像を巡らすというのが一番であるような気もします。