意識の分野の解消法その3 断捨離的に関係を解いていく

世の中では「断捨離」ということで、物を捨てることでスッキリしましょうという感じのことが囁かれています。断捨離がうつにも有効的であるという感じで語られることもあります。不要なものを捨て、所有物を少なくしていこうということで、なるべく執着から離れれば気持ちが楽になるというようなことが語られています。

しかし、おそらくそうした効用的な面だけが語られているにとどまり、本質的なことについてはあまり語られていないと思いますので、あえてそうした断捨離がなぜ効くのかということについて書いていきます。

アイツこと自我の根底にあるものは生存本能としての恐怖心ですが、「私」という虚像を作っているものは、私以外との関係性です。

そうした点は、「名とすべて」で触れていますが、自分と関係しているもので、「この私」が形成されているのであれば、「この私」を形成している「関係したもの」との関係性が変化すれば「この私」は必然的に変化していきます。

哲学的な面についてはまたいつか哲学テーマで諸法無我と縁起について触れる形で書こうと思いますが、ひとまずは、そうした関係性によって今の自分は形成されているのだから、関係性を変化させることで煩いを無くしていきましょう、というアプローチでお送りしていきます。

「意識の分野の解消法その3 断捨離的に関係を解いていく」ということで、「意識の分野の解消法その2 なるべく関係を謝絶する」や「『重要さ』を捨てて現状のストレスを少しずつ取り外す」の続編的なものを書いていきます。

自我の形成

今まで幾度となく触れていますが、アイツこと自我は「私」であるという一種の認定です。しかしながら、こうした「我」は虚像であり、「存在する」というものではありません。諸行無常を体感すれば、そんな固定的な「我の存在」が虚像であることに気付いてしまうはずです。

なぜなら、「この私」であるものは、自分以外のものから形成されたアイデンティティのようなものだからです。

例えば、日本は私ではありません。しかし僕は日本人です。日本国という概念も、僕が日本国で国籍を持っているということも、僕が決めたことではありません。そして、日本人であるというのは日本という「他国との分離を前提とした一種の具体概念」のもとに区切られた概念でしかありません。

ただ単に、自分以外の人達の間で印象づいた何かで、日本人と日本人以外に区切られた属性があり、そうした概念の中で僕は日本人として分類されているに過ぎません。そこに主体的な「この私」は不在です。

そのような感じで、今僕についている属性は、僕以外の人のためにあります。

無形の属性ですらそうですが、「この私」は物理的な物や場所、対人関係、保持している情報など、自分以外のもので形成され、示されています。

もし言語が存在せず、他の人間も存在しなければ、日本国という概念が何の意味もなさないように、言語と他の人間との関係性によって、日本国という概念も、「この私」に関する属性も関係性の中で何かしらの意味を持つようになります。

しかしそれは単なる情報であって実体ではありません。

物であっても、視覚情報や触覚情報による情報であって、実体ではありません。

そんな中、「我」を形成している「我以外のものとの関係性」が変化すれば、自ずと虚像たる「我」の状態も変化します。

なぜ虚像かということですが、ひとまずは次のように捉えておくと良いでしょう。

我が「関係性の中で形成されているもの」であるのならば、その関係性は瞬間的に変化しています。常に変化しているため、その関係性を定義することができない、という感じです。

関係を解いていく

と、一応本題に関係のあることなので自我の形成について少し触れておきましたが、今回のテーマは、断捨離的に物や人との関係性を解いていくことで、現在の「あまり良くない状態」を改善していくというアプローチです。

所詮、現在の自我は、現在関係しているもの、現在関係の強いもので形成されています。

こうした面の一部は、今までも幾度となく触れていますが、経験則的に断捨離で物を捨てていくことの効用のみを浅いところで捉えずに、物への執着や浪費の原因を探るだけでなく、全てのものとの関係性で今自分が「この私」と考えているような対象が形成されているだということを捉えておきましょう。

余談ですが、道教などでは、相手との関連性を非常に重視したりします。相手と関係を作りたければ(変な意味ではありません)、相手に物を贈ってルートを作るというような概念があります。

そして、一方的に貰ってしまった方は、贈った方に「借り」がある状態となります。その状態であると、贈った方に情報をコントロールされてしまう考え方です。

それを防ぐには、借りを作らずに贈り返すこと、もしくは受け取らないことです。そしてもうひとつの方法としては、そうした貰い物の「借り」を他に流してしまうという感じです。

先祖の供養(笑)

ヒンドゥー教化・道教化し、神仏が習合した日本の仏教では意味もわからずに供養という言葉が使われ、宗教代が貪り取られています。

根本的に霊(の実在)を否定しているはずの仏教において、「先祖の霊を鎮める」というようなオカルト的な脅しが常識としてまかり通っています。

はっきり言えばそれは洗脳です。

では、供養という言葉をどう捉えるとよいのでしょうか?

それは、例えば両親であれば、一方的に「借り」をたくさん作っています。

しかしそれは仕方ありません。そしてその道教的な「借り」は、なにか実在の関係である云々ではなく、己の意識の中にある情報状態だということです。

たいていは、「両親に対して借りがある」ということを意識的、無意識的に思っているはずです。一種の柵であり、一種の愛のようなものでもあり、一種の呪縛でもあります。

まさに自我の形成においては、「強固な関係性」になっています。ということで、煩いの根本原因にすらなるのです。

そうした人の意識の中にある「借りの意識」や「強固な関係性」を何かの行動を持って自己納得するために行う行動、それが供養というものです。しかしそれは錯覚であり、そんなことをしなくてもかまいません。

しかし通常は、そうした強固な関係性を「良いものだ」とし、疑いすらしません。

関係性を保っている人だからこそ、そうした自己を説得するための行動が必要になるのです。

ただ、それは単なる洗脳下におけるオカルトビジネス、冠婚葬祭利権にしかすぎません。

誰かに依存して、お金を払って解決してもらおうという構造は「この壷を買えばあなたの災難はなくなる」という霊感商法と同じです(煩いを増やすだけじゃないか…)。

ということで、そうしたものは洗脳であり、アイツこと自我の錯覚ですが、自我の領域を脱していない場合は、そうした強固な関係性の呪縛の内に居続けることになり、同時に「借り」のような構造で、意識に変な方向性がついているのです(それこそが「業」というやつです)。

そういうわけで、例えば、墓参りに行って借りを返した気分になったり、自分の子供に施すことで他の人に貸しを与えたりということでバランスを取っています。

墓場ビジネスと霊感商法

「我」を縛るもの

と、余談のようなことが続きましたが、そうした感じで、頭の中には様々な関係性がすごく複雑に絡み合っています。

ということで断捨離的に、目の前の物との関係を切っていくことで、「我」を縛るものが減っていきます。

人は、何かの文字を見るだけでも、それに関連したものを想起します。

パソコンやスマートフォンの中に画像が入っていたとすれば、それに画像が入っていることを無意識レベルで覚えていますし、仮にサムネイルであっても、それが一瞬でも見えた瞬間に、その画像と関連する記憶との関係性が強まってしまいます。

そういうわけで、部屋の中にものがあるとそれに関連した出来事が我を縛っていきます。

ということで、物理的な物が減るだけでも、我を構成しているもの、我を構成しているものの中の重要度が変化していきます。

ゴミに囲まれているなら、そうしたものでその人はできているということになります。

もちろん、それは物理的なものだけでなく、パソコンに入っているデータのような無形の情報、そして対人関係なども全て対象となります。

しかし我は虚像

しかしながら正確に言えば、我は無く、他との関連性の中で瞬間に変化する虚像です。

その虚像が映し出した映像を見ているだけという感じになります。

まあ例えて言うなら、雨が降った山の水が太陽の熱などで蒸発して雲になったとします。

その雲の影を見ているだけ、心に影が映し出されているだけなのです。

その影は風の流れで雲が変形していけば、形が変わります。

太陽との位置関係が変われば、映し出される姿も位置も濃さも変わるのです。

そしてそれは瞬間ごとに変化するため、それが何かを定義することはできません。

しかし、あの雲やこの影、といったようにだいたいで指し示すことはできます。その時に、「この雲ではなくあの雲」といったように何かしらの分離があるはずです。

しかしながら実体があるわけではないのです。


「哲学的な面について哲学テーマで諸法無我と縁起について触れる形で書こうと思います」という予告どおり、哲学テーマに「諸法無我(諸法非我)」を追加しました。

諸法無我


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