うつなどの精神症状が語られる場合、感情的なリラックス、身体的な楽さが軸に置かれ、それらをもたらすものであるようなコミュニティや「人と話すこと」などが大切であるというようなことが囁かれたりします。
しかしながら、ここであえて触れておきますが、そうした感情的解決法では乗り越えられない論理的迷妄の壁というものがあります。
すなわち、世間で提示される「解決策」は、イライラしたり不安だったりうつ状態になっている人に対して、何かしらの物理的処置、社会的関係性の調整等々によって「ほっ」としてもらえばそれで良くなるだろうとか、「人生の目的でもできればやる気など自然と出てくるだろう」というようなものがほとんどです。
もちろん、あまりに沈み込んでいる場合は、ひとまずそうした感情的解決策を講じてひとまずの気力を回復させるということが有効的ではあります。だからこそそれに即した投稿もある程度書いてきました。
しかしながら、そうした感情の問題だけでは何ともならない部分がいくつもあります。
「とりあえず落ち着いて活き活きとしていればそれでいいだろう」
ということで、おばさんが群れているような宗教団体や何かしらの社会的目的を持ったような謎の群れを含め、よく観察するとそれらコミュニティによる安心感は、多少なりと社会的問題が起こりにくかったり感情的な騒ぎがマシになるというだけで、ある問題については何の回答も示していないという部分があります。
それは「群れていれば当座の不安や孤独感を紛らわすことができる、そして紛らわせ続ければそれは幸せとイコールだ」というような無明から起こる誤見という感じになっています。
またいつか哲学テーマで触れますが、「どう生きるのか?」という社会的な問いと「私とは何か?」とか「生きているとはどういうことか?それがわからない中、生きるのか?」という哲学的問いはレベルの異なる問いです。
こうした論理的迷妄のうちにある人にとっては、「人と話せば楽になる」とか「コミュニティに属すると安心感が得られる」というものは、何の足しにもなりません。
しかし、「人と話すことで気が楽になる」とか「コミュニティに属すると孤独感は無くなり、安心感がもたらされる」ということが全くの嘘というわけでもありません。
感情を軸にしている人にとっては、それらは負の感情をマシにしてくれるものとして機能しますが、そうした感情的な動きに関する解決法だけで万事解決できるということはありません。
「運動は健康にいい」ということが正しくても、怪我をしている人には適した理屈ではありません。逆に「寝ていたほうがいい」ということも、病気や怪我などがなく、運動不足の人には適した理屈ではありません。
それと同じように、ある状態の人にはとりあえずの処置として適していることであっても、それが万能というわけではないという感じになります。
ところが、精神について語られる時、「人と話せばいい」などと、そうした感情的解決法ばかりが重要であるかのように説かれていたりします。しかしそれは一部のタイプの人達には通用しません。
端的には「人と話すこと」で、何かしらの鬱屈した精神が解放されるということはあっても、「生きているとは何か?そして、生きるのか?」という面を解決するものではないということです。
ちゃんとした仕事があれば、お金があれば、仲間がいれば、ということは全て社会的な属性を持ったものです。
それら社会的な属性を持ったものが全く意味をなさない哲学的問い、論理的な迷妄の内にいる人には、まさに「関係ない」ということになってしまいます。
普段考えられているような落ち着きの方法、ストレス解消法などくらいしか提案できないというのが関の山です。それ自体はそれ自体でいいですが、それだけでは何ともならない領域もあるということになります。
まあつまり思考が巡り巡ってしまうシッダルタやサーリプッタタイプの人達です。そうした人たちは、ごく少数のタイプの人達になるとは思いますが、「どうせこの経験も後には単に記憶になるだけで、やっても意味はなく、意味がないことを追い求めても意味はない。その中でこの私とはどういったもので、生きているとはどういうことか?」というようなことを思う人たちを感情論でどうやって説得していきましょう。
と、その前に「人と話すこと」や「仲間がいること」のようなこと、「仲間がいることで乗り越えられる感情的解決」について少し触れておきます。
仲間がいることで乗り越えられる感情的解決
そういえば長期間引きこもりのような状態にある人が、職業訓練生として少し社会の方に出てきた時にたまたま会ったことがあります。
長期引きこもりの原因を聞くと、
「フラれたショックで立ち直れなかった」
ということでした。
そして、その概要を聞くと、30歳を過ぎてから初めて相手が見つかったものの、数ヶ月でフラれてしまい、ショックで数年引きこもることになったということでした。
そう考えると、確かにそうした分野については、ショックが大きいでしょう。
司法浪人中のことのようで、たまにそうした予備校に行く以外には社会的な接点がない状態だったようです。地方から出てきて友人は皆無ということのようでした。
ただ、それが十代であったなら、周りにたくさんの人もいますし、違う候補もたくさん見つかります。学校に行っているのであれば、次の日に学校に行くだけで周りに同世代の人がたくさんいます。
気のいい友人がいれば励ましの代わりに「全裸でバク転」などをしてくれたりもするでしょう。
そうした「フラれること」は心理的負担が大きいものではあると思いますが、周りに人がいて、たくさん話しをしたりすればその負担を乗り切りやすくなります。
そうしたケースでは、確かに周りに人がいて、話し相手がいれば引きこもりを防げたということになりそうなものです。
歳を重ねると自然と周りの人は環境の変化によりどこかにいってしまいます。十代であればまだ乗り切りやすいものの、周りに人がいなくなってから起こったショックは条件的に乗り切るのが難しくなってしまうのでしょう。
ただ、ご本人も今では自分でそう気づいているようでしたが、根本をたどれば、条件の良い十代に友情等々を軽視して、勉強ばかりしていたというところにも原因はありそうです。遠く離れていても本当に仲の良い友人がいれば、窮地の時に駆けつけてくれたりもしますからね。
といっても結果論なので致し方ありません。
ただ、こうした問題、感情的問題の解決は、対人関係的であり、あくまで社会的な分野です。
社会的な分野に関する感情的問題であれば、ある程度社会的な解決法で乗り越えていくことができる部分があります。
「哲学的問い」論理的迷妄の壁
しかしながら、「哲学的問い」に関してはそれが通用しません。
例えば次のようなものがあります。
身内の誰かが亡くなったとしましょう。
その悲しみのようなものは、周りの家族等々によって何とか悲しみを乗り越えられるかもしれません。家族を失った悲しみは、その亡くなった方との社会的関係としての感情的問題だからです。
そうした感情については、周りの人々や時間が解決してくれるかもしれません。
しかし、その時に「死んだらどうなるのだろう?」という問いが生まれれば、周りに人がいようが、人と雑談しようが解決はもたらされません。
人と話してそれっぽい納得をすれば多少は気が楽になるかもしれませんが、本当に納得のできるような答えなどそうそう見つかるものではありません。
不可知であるならば、どう取り扱えばよいのか?
そうしたタイプの問いについて、それが「わからない」という不可知の領域であったとしても、不可知であることを納得しなければ論理的迷妄は止まりません。
そして不可知であるとするならば、「不可知である中、どう取り扱えばよいのか?」というところも問いが生まれてきます。
そうした感じで思考がぐるぐる回り、論理的迷妄の壁にぶち当たった時、「人と話せば楽になるよ」では解決しません。
今回は哲学テーマではないので、そうした問いに関する哲学的な側面は割愛しておきましょう。
ただ、そんな感じで社会的な分野に関する感情的解決法だけでは何ともならないという領域があるということを示しておきました。
「人の幸せ」が語られる時、その条件として「属するコミュニティがあること」ということなどを平気で言う人がいますが、そうしたものがあっても論理的迷妄の壁は乗り越えることができないということを見落としてはいけないということです。
より良い思考のために感情的な解決法を用いる
ただ、一方で論理的思考の領域、哲学領域であっても、そうした体感的な感情面を無視する必要はありません。
なぜなら、イライラを筆頭とした不快感、不安感などの感情が緊張をもたらし、思考の回転数を低下させたりする部分もあり、かつ、そうした感情が物事を見渡す視野を狭めたりして、見えない部分を作っているという場合もあるからです。
つまり、より良い思考のために感情的問題の感覚的な解決や社会関係性的な解決法を用いるという感じでいきましょう、という感じです。
もちろんそれは根本解決ではありませんが、根本解決に関係がないとしても、根本問題を解決するにあたっての事前準備という感じで取り扱いましょう。
本質的解決に意味のないことをしているという誤見
最後に、こうした哲学的領域の問いについて「本質的解決に意味のないことをしている」という判断をする人たちについて少し触れておきましょう。無明ゆえの誤った見解による判断の誤りについてです。
そうした誤見の例として、例えば、無明ゆえにおこる精神科医の判断がそれにあたるでしょう。
「感情的な問題を別の問題と関連付け、根本解決に意味のないことを繰り返してしまう」というものは、マニュアル的に考えると神経症の類型として扱われたりします。
ということで、そうした哲学的問い、論理的迷妄の中にいる人達を、強迫神経症などのように判断してしまうという感じです。
そうした判断をする人たちは、次のような前提があります。
俗に言う「人の幸せ」「社会的な幸せ」は決まっており、それは自分たちが信じてやまない「健康、社会的成功、家庭円満、金銭的余裕」といったようなものです。
そうした前提に立つと、哲学的問いを持つ人達は、「一般に考えられている幸せの形」に関係のないことばかり考えているというふうに判断されてしまいます。
そして、そうした「世間的な幸せの定義」に関係した「求められていること」や責任から逃げているなどと判断したりして、「そうした緊張を、本題と関係のないことばかり考えてごまかしている」と判断したりしているという格好になっています。
不快な感情を知識がむりにこじつけて妄想が生まれるという構造はありますが、先のような「哲学的問い」は必然的で即時的にあるような論理としての問いです。
そうしたことを考えたこともない人たちが、勝手に社会的な理想像を定義して、勝手に「本質的解決に意味のないことをしている」と判断しているに過ぎません。
単純には「テストに行くのが嫌で、『時間とは何か?』ということを気にしているだけなのだろう」と思っている、という感じです。
そして、そうした誤見を持つ人達は、自分たちの定義に沿って社会関係性的な感情的解決法を勧めてきたりします。
それらは仮観の中の社会的な感情的解決の領域です。哲学的領域で考えると、例えば唯識的な空観の中ではそれらは「それが何ですか?」という感じになってしまいます。
もちろん、形而上学的な空観の中にあっても、「その中でどうあるのが良いのか?」というところを見つけていく必要があります。
と、このあたりは哲学テーマをご参照いただくとして、端的には感情で判断し、感情で全てが解決すると思い、問題は社会関係的な問題のみであると定義し、哲学的問いに気づかないような人たちの「無明ゆえの誤った見解」にとらわれることのないように、という感じです。
そうした社会関係的な感情的解決法すら、深いところでの「恐怖心」から起こるすべての感情を「ひとまず打ち消す」ということでしかありません。
例えば「社会的成功」や「コミュニティに属すこと」も、個としての生命が「安心したい」と思い、「安心の条件として有効そうだ」と思考で判断したものにしか過ぎません。
しかしながら、そうした解決法のようなものは、四苦八苦を解決することはできません。つまり「全ての苦しみ」を根本から解決するものではないということです。
社会的な属性を持つ解決法によって短期的な苦しみの低減はもたらされても、病や老いや死といった「起こる可能性があること、いずれ訪れること、に対する不安感」はどうにもできません。何事も「生きるためにやらされている」という部分も同様です。
嫌いな人と会うことや会う可能性を常に持っているという苦しみ、どれだけ執著してもいずれ必ず来る愛するものと別れる苦しみ、求めているものが手に入らない苦しみ、そして接触によりそれらが形成されてしまうという法則性に関しても、「人と話す」、「仲間と一緒にいる」ということで解決できるものではありません。
そうした一切の苦しみから脱するということを考えることを、無明にある人達は「社会的な責任からの逃げだろう」と判断したりします。
その「社会の中で生きるかどうか」すら問いに含まれているにも関わらずです。
最終更新日:
わたし自身、20歳前くらいから慢性的な鬱症状が在り、2008年から引き籠りです。
わたしは根本的な原因を自分でわかっています。
父が関心を持つすべての性的なものに対することが根源的要因です。
4歳で母を亡くした母の記憶がないわたしにとって父はわたしのすべてであり、相互依存関係にありました。
わたしはこの鬱と死ぬまで付き合って行くつもりです。
アルコール依存症であり、いつ死んでもおかしくないような生活をしていますが、この人生はわたしが望んだ人生であるのだろうと自分で問いかける時、”これは間違っているんだ”という”わたし”を、尽く削除してきたのです。
わたしは、これ以上の自分の人生がわかりません。
”これ以上”は、存在しないはずだと、願い続けて生きているような、極限的な生き方であると言えます。
どのようなものが原因かは存じませんが、過去のそれらは記憶です。今現実に起こっていることではありません。
虚像を虚像として見切り、心を静めて反応することをやめてみましょう。
過去の記憶や過去の記憶から想起される未来への想像という虚像は、今という瞬間に意識を向ければ向けるほど記憶は「今の意識」への影響を弱めます。
「社会的」には他者に要因があったと判断されることでも、今現在においては、意識の内側の記憶が要因となっています。
対外的には「自分の責任」でないと判断されることについても自分の内側で起こっていることについては、自分の内側のこととして取り扱わねばなりません。
もし社会的な解決が必要な場合であっても、それは二者以上で構成される社会においての「社会的問題としての領域」で、理性的に検討しなければなりません。
ご存知だとは思いますが、アルコール依存に関しては、現状にもよるものの一般的に2週間の断酒で海馬がある程度回復し、数ヶ月で脳神経全体がかなり回復します。
生理的に回復した状態から、すべてのことを再度見渡すと、見え方が変化するかもしれません。それがどのような形であれ、おそらくより良いものとはなるでしょう。
現在以降のより良い状態を意図してください。
あなたには通じないと想いますが、世間の考える「より良い状態」になどなりたいとは想っていない人はたくさんいるのです。
実際、現在苦しんでいる人間の本音とは、「これ以上に苦しみたい」なのです。
何故なら、人間は苦しみを経験するほどに、進化する(魂が成長する)生き物だからです。
わたしもそうなのですが、わたしはこの状況が今のぎりぎりの限界であるということに一番に苦しんでいるように感じます。
返信は要りません。
お返事をありがとうございました。
それでは最後に示しておきましょう。
「傷つくから」という理由で宗教勧誘者に対する論理展開を抑制することを勧め、また一方で苦しみを美徳としているのは矛盾です。
「これ以上苦しまないために、今の苦しみくらいにしておいてくれ」という自己説得程度です。
「痛み」というものは、余計な観念、記憶から起こる執著を手放すための気づきを与えるものです。
以前、そうした点を示しましたが、その時は「感情を理解しようとしない」と否定をされました。
そして次には、「苦しみの経験により進化する」ということを述べられています。
そしてその先にあるものは、「より良い状態」であるはずです。そしてより良い状態になるステップとしての「痛み」があるわけです。
しかし、その果てに「無駄な感情による苦しみ」が消えることを望んでいるはずです。
結局は苦しみからの脱却を望んでいるということになるはずです。
よって齟齬がないように示すならば、成長のための痛みは歓迎であり、無駄な苦しみはゴメンだということになります。
そしてその痛みは外界の現象が直接の原因ではありません。
普遍性、絶対性を持たない観念への執著による関数の出力としての無駄な感情の騒ぎといった程度です。
他人に「このようにあって欲しい」と思うまではいいですが
、「そうならないと怒りで満ちてしまう」というのは無駄な苦しみです。
己のこころと向き合ってください。
先のコメントでも触れましたが、「感情的騒ぎには付き合わない」という点と、主義の主張を展開されることは論旨からズレますので、以後、コメントは遮断させていただきます。
それではお元気で。
私は自分で自分が精神的におかしくなったと思った時(高校生の時)から長いことこの記事にある論理的迷妄の壁から抜け出せていない感じがします
気分に波はありますが今まで楽しいと思えたことを楽しいと思えなくなり続けてみても最中に何やってんだろう…みたいな思考が働いてしまってやる気も楽しむ気持ちも何も無くなってしまうということが増え、これのせいで何事にも関心が向かない現象が発生してしまい、これを生きることに関しても当てはめて考えてしまいます
論理的迷妄の壁にいる中で幸せに生きていくためにはどういった行動や思考をしていくのが良いのでしょうか…
コメントどうもありがとうございます。
逆説的ですが、「論理的迷妄の壁にいる中で幸せに生きていくために」ということに関しては、やる気も楽しむ気持ちも求めずに解放するというような感じがその指針となると思います。
基本的には一切の時間軸的な方向、社会的な方向など全てに対して比較というものを排除するというのが一番です。
もちろん、今楽しければ「今まで楽しいと思えたこと」に限定する必要もありませんし、過去との比較の必要性はなくなってきます。
ただ、特に過去との比較というわけでなくても、今楽しくなければ、何事も楽しく思えません(同語反復的ですがご容赦ください)。
ただ、理屈上、たとえやる気がなくても、楽しくなくても、精神が静まっていたら、穏やかな満足だけが残ります。そうなると自然な「入力に対する出力」としての行為のみが残ります。
穏やかな満足が残っているような感じではないのであれば、何かしらの思考の強迫のようなものが残っています(それは、それ自身が「気付かれて排除されないように」と工夫をしていたりします)。
特にやる気も楽しさも「必要なもの」ではありませんが、気持ちに蓋をするような形で人や自分に気を遣いすぎているようなことがあり、それにより制限されていることがあります。総合的に考えた上での面倒くささや、社会的倫理観によって制限されていたりします。
そうしたものも諸法無我を体感によって捉えると瓦解します。そうした感じで「理」を観るという点に意識を向けるというのが一番です。
捉えることができれば苦は消滅し、捉えられなくてもそこにたどり着くまでのプロセスとしての楽しみが生まれます。
とりわけ論理的迷妄の壁に当たっている場合は、それがベストであると思います。
私には内容が難しくて、返信できる内容が思いつきませんが、返信ありがとうございます
私の場合はやる気も楽しさも必要なものだとは考えずになにもしないでいると謎の焦りのような感情が湧いてきて不快になってしまうので、穏やかな満足だけが残っているような状態ではないですね…なので思考の強迫のようなものが残っているのかもしれませんが、それが何なのかは自分でもわかりません…
私には諸法無我を体感によって捉えるというのが全く理解できておらず不明なのですがそれによって上記のような苦しみが瓦解するという感覚も不明です 思考が浅すぎるのかもはや関係あるのかどうかすらわかりません…諸法無我のページは何度か読み返してみようかと思います
再度コメントありがとうございます。
ややこしい内容であると思いつつも、あまりにハードルが高いという前提となると本当にハードルが上がってしまうので、「わからなくても良い」くらいの感覚で通過していただければと思います。
これは「体感で捉え」るというものは、「思考で理解する」というものとは別領域であるということにも繋がります。思考による理解のみを求めると思考の罠に嵌ることがあります。なので、思考で理解するというより、無意識の材料を得る程度で「通過する」という感じでも大丈夫だと思います。
「執著する対象としての『我』に実体がない」ということを現実の現象として明らかに観ると、焦っているのは他人事のような感覚になります。焦っている人を温かい目でなだめる側の人になったような感覚になり、冷静で落ち着いていられるようになります。
さて、今どのようにお過ごしかはわかりませんが、「謎の焦りのような感情が湧いてきて不快」という状態が一種の基準となっていて、静まるにしても動くにしても、行き過ぎにブレーキがかかるというような状態になっているような気がします。
貫通するまで、思いっきり休むか、思いっきり動くか
というようなことをすると、何かが開けるかもしれません。
明らかな過労気味のときは、遮断できるものはすべて遮断しつつ想定しているよりももっとたくさん休み、逆に体がなまっているときは、半ば無理矢理意図的に体を動かすと力が湧いてきます。
「今できる範囲で」とか「何をやっているんだろう…」という思いを一旦無視してやりすぎるくらいやるというのも一つだと思います。
回答ありがとうございました
とっても参考にします