愛と真実

愛するあまり、われわれは、真理に対する悪い犯罪者であり、われわれにとって本物だと思われるより以上を本物にしてしまう習慣的な故買者(けいずかい)であり泥棒である。 曙光 479 前半

相手が物であれ人であれ、何か考え方のようなものであれ、愛著のような「好き」という感情、「何を犠牲にしてでも」というような自己犠牲の精神などが含まれるような、擬似的な愛にとらわれると、事実を事実以上に見てしまい、本物以上に、本質以上に、無駄に評価してしまいます。

例えば、お涙頂戴系の企画で「恩人のために走る」というのは、人がただ無駄に走っているだけで、「恩人への気持ち」と勝手に混同しているという事になります。

スポーツでも、ただ人が遊んでいるだけ、勝手に決めたルールの中で勝ったとか負けたとか、見事な技だとかそういうことを騒いでいるだけで、ただ人間という動物が無駄な知恵で考えた暇つぶしを無駄に評価しているだけのこと。それを関連させて、色々と語っているにすぎません。

事実はもっとシンプル

もっと仔細に見れば、事実はもっとシンプルで、足先に刺激がきたとか、光の差を感じたとか、その程度です。それは、事実としてはたったそれだけの事のはずなのですが、それを評価しようとしてしまいます。

「それがどうしたのか?」と常に問わなければなりません。

そうなると、全てのことに楽しみや楽しみの期待、そういった類の感情に諦めが生じます。しかし本当に諦めが生じたのなら、憂いも無くなっていくはずです。

「殴られた痛み」を諦観する

例えば誰かに殴られたとしても、殴られた痛みというものは、その場所からの体的な信号でしかありません。諦める、諦観するということはそういうことです。

すると無駄な怒りがなくなっていきます。

同じだけの痛みを相手に与えたとしても、それは相手の様子を光で感じて頭の中で合成して判断しているにすぎません。そして、その「相手の痛み」で自分の体からの信号が帳消しになることはありません。まだその場所を冷やしたほうがよっぽど痛みはなくなっていきます。

事実を事実以上に見ること

値段の高いものであっても、実際に感じることができるのは使用した時の触った感じとか、便利さくらいのものです。

それ以上に何かの評価を与えているとすれば、それは事実を事実以上に見ているということになります。

iPhone4とiPhone6で何が変わったでしょうか。その差を凄まじく感じることのできる進化はあったでしょうか。

ブラウザで完結できるものをアプリ化することによって、何がどう変わったのでしょうか。激的に進化したとは言いがたいほどのチンケな進化です。

事実を事実以上に見ることは、文化といえば文化です。

しかし文化が素晴らしいものかどうかは別問題です。

「所詮たったこれだけのこと」

どれほど美しいような女性であっても、具に観察すれば、物理的な接触の間口、五感によって体感できる情報は限られています。

するとあとの「美しい」という要素は頭の中で作り出しているということです。

たったそれだけのことですから、美しいと意識が感じても、意識がそう感じているだけというただ単純な事実しか残りえません。

そうなると、評価や評価による一喜一憂は、何もしがみつくようなものではないという諦めがやってくるでしょう。

それが可愛らしさであれ、良き思い出であれ、愛着であれ、そのような擬似的な「愛」など、自分をさらに苦しめるだけになってしまいます。

「所詮たったこれだけのこと」

ということを、しっかりみつめるといいでしょう。

愛と真実 曙光 479

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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