京都も今では観光バンザイのような風潮を持っていますが、明治初期までの間、女性は神社仏閣への立ち入りは禁止されていました。
おそらくそれは「儒教の影響を受けた仏教」の影響による男尊女卑的な風潮もどこかにありながら、女性自身を守るためのものでもあったと思っています。
女性は共感性の高さから強烈な変性意識状態に陥りやすく、いわゆる「狐憑き」のような事が起こりやすいということ防ぐためという配慮です。
歴史的に観ると欧州でも修道院などで女性の集団ヒステリーがよく起こっています。そういうわけでヒステリーを起こしやすいということへの配慮だったのかもしれません。
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京都には意識的結界があります。
それは空海や最澄、そして安倍晴明などによる工夫の賜ということになるのでしょう。
意識的結界というのは、特別なものでなくとも、現代でも非常に日常にありふれています。
例えば、女子トイレのマークは、その空間への男性の侵入を防いでいますからね。十分に意識的結界です。
「京の都に変なものを寄せ付けない」
ということを目的とするならば、いろいろな工夫ができるのです。
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考えてみれば幼稚園の頃からお泊り保育みたいなもので泊まった先が比叡山延暦寺だったり、生前、おばあちゃんから「これを持つのはあんたしかおらん」と、「おばあちゃんのおじいちゃん」あたりが使っていたらしい密教法具の五鈷鈴を渡されたりと生活の中で勝手に関係が結ばれていました。
「意識を操作する」ということにかけては、日本においては密教系がそのエキスパートです。
コップの水をゼロにするのが禅なら、満タンにするのが密教です。
そして結局はそんな世界も全て幻であり、この世界の解釈においてもそれは同じだというアプローチをしています。
ということで、そうした文化が色濃く反映された場所は、比較的近代に建築されたものであっても、非常に綿密に設計されていたりします。「意図的に意識を揺らす場所」です。
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京都観光のおすすめスポットみたいなものを三流のライターなどがよく書いていますが、そうした人の目線は当てになりません。
所詮消費者が何者かになったような気分になり「自分を楽しませたい」という動機によって遊びに行っているにすぎません。
それはそれでいいですが、元々意図的に意識を揺らすために設計されている場所に行くので注意が必要です。
遊びに行くために作られた「テーマパーク」のような感覚だと意識のガードが緩んで「狐憑き」のように変な意識に汚染されてしまうかもしれません。
と、それは半分冗談ですが、「意図的に意識を揺らす場所」として設計されているということを体感しに行くと、今の自分の認識がぐらつき、「アイツの領域の錯覚」に少しは気がつけるかもしれません。
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本ブログ常連さんへの特別サービスとして「おすすめスポット」を一箇所だけ書いておきますが、あまりに人で溢れかえると意味がなくなってしまうということで、当然に常連さん以外に知らせる気はないので、本ページは検索エンジンに反映させないことにします。
京都では有名だと思いますが、京都以外の方が大半なのであえて書いておきます。
神護寺(神護国祚真言寺)の金堂
たまに「かわらけ投げ」などでちらほら名前を出していますが、京都市右京区高雄にある神護寺(じんごじ)です。
もちろん洛中ではなく、京都市内と旧京北町(現右京区京北)の間くらいにあります。
しかしながら、寺の麓の施設や駐車場はおすすめしませんので、行かないことを強く推奨します。
若き日の空海が住んでいた場所でもあり、国宝の薬師如来像がショーケース無しで目の前で見れる場所でもあったりします。
その他、期間限定で公開される宝物としては、歴史の教科書に載っている系の源頼朝像(他説あり)もあります。
紅葉の季節や宝物虫払い行事の間は人でいっぱいになるので、あまり意味はありませんが、薬師如来像が立つ金堂に入り、薬師如来の目線で振り返ってみましょう。
両眼で空間を立体合成することに意味がありますので、写真を見ても意味はありません。
この金堂は近代に建てられたものですが、設計者はかなりのレベルの人だと思います。金堂単体ではなく、方角を含めたその前にある空間すらも完全に設計しているはずです。
国宝の薬師如来像に気が取られている場合ではなく、「あなたが薬師如来となれば見える」というところが粋ですね。
まさにアイツの領域を脱するという感じのメタファー的になっています。
薬師如来の目線で外の世界を見渡す時、おそらく意識が揺れます。
あとはご自身の目でご体感ください。
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境内には元祖「かわらけ投げ」スポットがあります。
女性を連れてやってきている元野球部などの角刈りのおっさん等々が「オレはすごいんだぞ」と自慢をするスポットでもあります。
そうしたおっさんを発見してほくそ笑みましょう。
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