思考の罠ということで、思考がすべての展開にブレーキをかけたり、絶え間ない重圧をかけたりしてしまうことや、「考えないほうがうまくいき安らぎに帰する」というようなことについてでも触れていきます。
少しばかり「苦」ばっかり扱ったので今回は明るいテーマです。
なんだかんだで哲学的なテーマは重く感じたりします。その重さは人を幸せにはしてくれないという意味で、哲学は何事にもあまり解決をもたらしてくれないということにもなりますが、あまりに曖昧だと逆に誤魔化されたようで不安感が残ったりします。
まあ思考の罠というタイトルに相応しく、まずは科学的思考の根本的な誤りについてでも触れてみましょう。
科学的思考の根本的な誤り
科学的思考には罠がいっぱい潜んでいます。といっても、では逆にカルト的な宗教の教義やオカルトが正しいのかと言うとそれも誤りです。もちろん自然科学の分野などでは科学は科学なりの正しさを帯びていますが、それが哲学的な領域になると一気に出だしからおかしなことになっていたりします。
「根本的な誤り」というのは、蓋を開けてみると笑ってしまうくらい単純なのですが、
「前提が違う」
という感じで根本から誤っているという感じです。
それは非常に単純で、「世界の捉え方が根本から違う」といったものになり、仮観の視点から思考をスタートさせていることがその原因となります。
心で受け取るものとしての世界・情報
まず深く深く考えてみると、この世界とは一体何でしょうか?
それはこの心で受け取るもので形成されているはずです。
すべてを単なる「情報」として考えてみれば、いかに客観的に存在する云々を言ったところで、この目で見たり手で触ったりして、何かしらの接触をしたりしないと、存在していようが何だろうが無いのと同じです。
この心が受け取れるレベルに形成されないと、何もないのと同じですし、それは「ある」ということにもなりません。そして、すぐに変化して過去となり、過去となれば記憶として「今形成されるもの」としかなりえず、それは情報の状態であるため、あるというわけでもありません。
おっと、少しややこしくなってしまいましたが、すごく単純に示すと、まあほとんどの人が「客観的な世界の中の自分」という視点で世界を捉えているという感じになります。
それは慣れ親しんだことなので、誰しもが疑いをかけずにいるという感じになりますが、これは多数決で決まるようなものではありません。
この私が幸せならばそれでいい
すごく単純に考えた場合、まあ究極的には「この私」が幸せならそれでいいはずです。仮止めとして「この私」という表現で進めていきます。
しかしそうした発想をすると、世間では「自分のことしか考えていない人」という烙印を押されたりします。
「自分の幸せしか考えていないなんて自己中心的な発想のやつはけしからん」
といった感じです。
しかし、何事も受け取るのは「この心」です。
いかに世間で評価されるとか何とかいったところでその喜びを享受するのはこの心なのですから、結局この心がずっと幸せであればそれで十分なはずです。
仮観の世界観
ではどうして自己中心的な人が非難されるのでしょうか?
世間で言う「自己中心的な人」を非難している人も、結局そうした「自分にとって都合の悪い人」を排除することで自分が幸せになりたいという自己中心的な発想をしているにもかかわらずです。
結局なんだかんだ言っても「この私が幸せならばそれでいい」ということになっているじゃないかということです。
そんな中、自分の幸せだけを望む人が非難されるのは、概ね自分の幸せを他人に依存しているからです。どちらかというと幸せというよりも快楽の追求や苦痛の回避において、他人に何かを強いるという感じで人を踏み台にしたりしているからこそ非難されるということになるのでしょう。
しかしながら、万人の幸せなどと言っていても、結局万人が幸せであろうが、この心に受け取るものが苦痛で満ち溢れているのなら、世に言う偽善など吹き飛ぶはずです。
というようなこれらの話もほとんどが仮観の世界観です。
世界の捉え方が「あっち側」になれば、「くだらん議論だなぁ」という感じになり、すべての問題が問題ではなくなります。
だいたい、科学的思考は統計とか何とかを持ち出したりして「他人にも説得できるように根拠を示さなくてはならない」という発想が根底にあります。
この心が安らぎに帰するのに他人を説得できるかどうかということを検討すること自体が誤りです。
この私だけが幸せであればいいのに、根拠は必要ありません。他人からの承認などというのは理論の話だけをもってしても不要なのです。
なぜなら、他人など「いない」というのは飛躍していますが、いてもいなくても同じだからです。そのあたりは諸法無我あたりをご参照ください。
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか?
そういえば最近釣り投稿である心理学コーナーを増設しました。
理由は簡単で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」
ということです。
といっても少し説明不足ですね。
ということでもう少し触れておきます。
人が心理学を学ぼうとするとき、そうした時のだいたいの理由は、「他人をコントロールしたい」ということが動機になっていることでしょう。
それが詐欺師や胡散臭い占い師のような人を陥れるタイプの人であれ、仕事や恋愛に活かしたいという人であれ、究極的には人を癒やしたいという人であれ、「自分以外の他人」を「コントロールしよう」と思ったりしているはずです。
そういうわけで、イエスっぽく言えば「 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」ということになります。
ということで、釣りを増やしてみたという感じです。
何事もこの心が安穏であればそれでいいはずなのですが、「この心が安穏であるためには…」ということで条件を増やしていったりしています。それが思考の罠のひとつです。
「他人をコントロールできなければ私は不安なのだ」
ということになります。それは何重にも誤りです。
この心が安穏であるのに条件はいりません。まあ体のこともあるので、もう少し具体的考えた場合であれば「生理的に劣悪な環境でなければそれでいい」という感じになるでしょう。
他人を動かすということではなくて、この制し難きこの意識と向き合うために少し知ってみるくらいでちょうどいいはずなのですが、世間ではどうも自分の心は脇において他人の心を何とかしようとするような感じになっています。
理論の上でも人に承認されなければ不安
カルトにおいては、洗脳パワーによって意味不明な理屈を盲信している感がありますが、科学的であればいいという発想も一種の科学カルトになりえますし、根底には「理論の上でも人に承認されなければ不安」というアイツの騒ぎがあります。
「裏付けが欲しい」
というやつです。
その裏付けとして、権威がありそうな人の理論とかそういうのを持ち出したりしますが、残念ながらどのような理屈であっても示し得ぬものについては確実な根拠とはなりえないという感じになっています。
「こういう人のほうが高所得者である可能性が9%高いことがわかった」
「で?」
という感じがしないでしょうか。
「それがどうした?」
の世界です。
気付けば一気に問題ではなくなる
この世界を捉えるにあたって体感領域で正確な気付きがあれば、それまで問題だと思っていたことが一気に問題ではなくなります。
「この会社でどうやって生きていこうか?」
と、「あの人とはこうやって接して、今月にはこうした目標を達成して…」などなど、いろいろ検討していた人が、会社を辞めた瞬間にすべての問題が消えてなくなるというレベルで、問題が問題ではなくなります。
理論の上でも人に承認されなければ不安というような感覚も全てなくなります。
いつまでも特定の哲学者の「研究の第一人者」といった感じでいる人達が爆笑の対象になるでしょう。
「全然意味なくない?」
という感じになるはずです。
まあ爆笑を越えて憐れにすら思えてくるという感じです。
それら議論がアイツの内側でぐるぐる回っているだけのものであることが必ずわかります。まさに思考の罠にハマっているという感じなので、憐れに思えてくるでしょう。
裏付けを求めると思考の罠にハマる
さて、強烈に前置きが長かったですが、本題は短いので安心してください。
「裏付けを求めると思考の罠にハマる」
というやつです。
例えばボーッとしていてなんとなく「安らいでいるなぁ」と思っていたら、誰かが急に来て
「おい、やばいことに気づけよ」
と言ってきたら一気に台無しになります。
「そうですかぁ」
などと言って流していれば、まだ安らぎにいますが、
「自分の状況わかってんの?」
などとどんどん言われつづけます。
これでいいのだ!
そんなときには
「これでいいのだ!」
です。
「自分の状況わかってんの?」
などと言われて、「確かに…」などと思考が巡ればどんどん罠にハマっていきます。
そんなときには
「これでいいのだ!」
でも
「退けマーラよ!」
でも構いません。
「迷い」とラベリングしてもいいでしょう。
「彼との復縁はどうなってるんだ!」
「彼は『今』いません」
「連絡がとれるだろ!」
「そんな人は『今』いません。これは迷いです」
で完了です。
「これでいいのだ」を裏付けようとすると思考の罠にハマる
「これでいいのだ!」
に対して
「どこがいいんだよ?」
という声がしてきた時にやってしまうのが、広い意味での「科学的な裏付け」で安心しようという方法です。
科学的な裏付けを欲すると、科学的な条件がセットでやってきます。
せっかく安穏の中にいるのにまた苦しみに戻そうとするようなアイツの働きが起こるというやつです。
だから「これでいいのだ!」でいいのです。
なぜ「これでいいのだ」でいいのか、ということの根拠を求めようとすることもまた思考の罠です。
ということを言うと「レッツポジティブシンキング!」といったカルト臭いような気もするので、最後に「理論を理解しなくても起こる気づき」について少し触れておきましょう。
仮観を見破る
仮観については「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」などで触れているので、そちらをご参照いただくとして、ここでは思考上の理解を越えて仮観を見破るというようなことについて触れていきます。
すごく単純なのですが、ボーッとしながら道端の野草を眺めてみましょう。
「そんなことくらいしたことあるよ!」
という人でも、今現在という瞬間に意識を向けながら、「自分」や目の前の景色などすべてを全体的に観察してみてください。
1秒たりとも同じ状態であることは叶わないはずです。
そのような中、勝手に起こる思考も流し、目の前の野草が風にゆられて変化する様を見て、自分の姿勢が少しずつ動いたりする様も、手を動かす瞬間も何もかもを見逃さずに、瞬間としての「今」を捉えてみてください。
「ふっ」と消えればそれでよし、そんな中「自分って何だったけ?」というような素朴な疑問などを持ちながら、観察を続けてみましょう。
「この自分」というものを含め、今その瞬間にあった状態は変化するということを観て、生ずるという性を持つものは、滅するという性を持つ、ということを感じてみましょう。
静かな安穏を体感したら次のようにつぶやきましょう。
「これでいいのだ!」
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