とーもだち!とーもだち!僕の頭にある意味での「よげんの書」が出来上がりつつありました。
おそらく学級委員になったのは、少年野球をやっているZ君。人畜無害です。おそらく野球つながりで相当の票を獲得していました。
名簿の画像を送ってくれた同級生女子、― Cとしましょう。との話し合いの末、おそらくZ君だったということがわかりました。
そこで、ある程度納得がいきました。同じクラスには少年野球組が多く、ある程度仲の良かったやつも野球つながりでそっちに流れたということです。
それで多少の納得があったのですが、それでもその理由が当てはまらないやつらもいました。
一緒に庭先で理科の実験をしたりしたやつもいたはずです。
やはり一方通行でした。
そして…Z君は何も悪くないのですが…
野球、野球、野球。野球がそんなに偉いんかい。先輩や大人にハイ!と返事だけする脳筋感や好青年のふりをして後輩をいじめたり、成績が悪い割に推薦で学校に行こうとする低知能感もありました。
「僕は違うんだ」
「僕はお前らとは違うんだ」
という感覚が強くなりました。
「うっさい、野球の話をするな!」
という感覚がありました。
今でも例えばイチローがとか、大谷選手の~と言われるとイラつきます。
世間のみんなが関心を持っていると思うな。共通認識だと勝手に定義するな。
ということです。
しかしそれ以上に、野球やスポーツへの抵抗の根源は、何も悪くないZ君、そして彼とのつながりを優先した同じクラスの友だちもどきです(一応、それ以前にサッカー事件もありました。その後、「野球部でいいやつ」等々、様々な人に出会いさほど抵抗は生まれなくなりました)。
その日までは、おじいちゃんの横でナイターを観ていたんです。
別に関心もありませんでしたが、抵抗もありませんでした。
しかしその日から、なぜか野球に強烈な抵抗が生まれました。
「僕はお前らとは違うんだ」
という思いが強くなりました。
成績を争っている気はないものの、周りが勝手に「今回はどちら」と盛り上がっていたY君。彼とは学校の成績が2番目と3番目で常に争っているような状態でした(1番目の人は、親が教師で勉強を強要されていました)。
彼も同じクラスでした。
僕は争っている気はありませんでした。特に関心がなかったのです。
あまり言うのも何ですが、僕はこの頃の知能テストで「数学年上」のスコアでした(漠然と表現しておきます)。
Y君は、教育ママのもと塾に通っていました。「3番目」だったときにはお母さんに嫌味を言われていたようです。
彼のことも、
「塾に通わないとできないんだ」と笑うようになりました。
「無理に勉強してるやつが、どうせ僻みで投票しなかったんだろう」
とすら思いました。
それまで意識はしたことがありませんでした。
「親にお金を出してもらわないとできないんだ」
と、馬鹿にするようになりました。
別のクラスでしたが、1番目の人も「親が教師で毎日勉強を強要されていて、あの程度か」
と思うようになりました。
「あ、僕は違うんだ」
という思いが生まれました。
それまでは、全く意識したことがなかったのです。
しかし、その日から「僕は違うんだ」と思い、「同級生には僕の思考を理解できないんだ」と思うようになりました。
じゃあどんどん騙していこう。
それを試してみようと思いました。
素人騙しのニセモノの始まりです。
「注目を集める」ということと、「その注目は嘘の素人騙しで行うこと」という二つの意図が生まれました。
誰一人友だちじゃないんだもの。
せめてバカにして生きよう。
と思ったわけです。
父の事業破綻前なので、当時の僕の家庭はまあまあ裕福でした。
同じクラスには月刊ジャンプしか買ってもらえなかった同級生Xもいました。
そいつに
「なんで週刊じゃないの?月刊と週刊両方買ったらいいやん」
と言った時、よく考えると彼は口ごもっていました。
知らぬ間に傷つけていたのかもしれません。
ただ、当時は「もしかして、貧乏の僻み?」と思ったりしました。
そそのかされた学級委員選挙において、「自己投票の1票」で同級生への信頼を完全に無くし、自信という概念がなかったのに、それが生まれたと同時に喪失した僕は、
「色んな面で、あいつらとは毛並みが違うんだ」
と思うしかありませんでした。
演劇のまねごとの会
早速その「よげん」は実現しました。
学校でオリジナルの演劇のまねごとのようなことをする会の脚本担当になりました。
僕はその当時、コロコロで連載されていた「ドラえもん のび太と夢幻三剣士」をほぼ丸パクリで要約し、他のドラえもん短編と組み合わせて、原型がわからないように仕上げました。
「クラスでコロコロを買ってもらってるやつはほとんどいないし、大長編の単行本も買っていないだろう」
内容をほぼ覚えていたという点もありますが、丸パクリ要約なので一瞬で仕上がりました。
同じクラスの一同は盛り上がりました。
そして注目が集まりました。
「ともだち化」の始まりです。
注目とニセモノの始まりです。
内心
「やっぱり、アホばっかりや」
そう悦に入っていました。
この当時のままいけば、本当に20世紀少年の「ともだち」のように、宗教組織、商業組織かはわかりませんが、カルトを組織するか、当時話題だった破壊的カルト宗教に入り、幹部を目指していたかもしれません。
20世紀少年において「ともだち」がロープで吊し上げているにも関わらず、空中浮遊しているように見せかけ、観客が「おおお~」となっているシーンに近いものがあります。
「何でもいいんだよ」
というような言葉がとても沁みました。
「つまらん日常に刺激と期待、安心を与えてくれるなら、彼らは嘘であろうが何でもいいんです」というような感覚です。
素人騙し完了です。
同級生騙し完了です。
これで「せんきょ」で選ばれなかった僕は注目され、そして彼らは僕の「騙し」にコントロールされています。
僕が選ばれなかったのではありません。
その時、僕がコントロールしなかっただけです。
彼らはニセモノに騙されています。
やっぱりバカばっかりです。
これで主従関係は逆転しました。
僕が同級生にコントロールされるのではなく、同級生が僕にコントロールされるのです。
僕が世間にコントロールされるのではなく、世間が僕にコントロールされるのです。
僕が世界にコントロールされるのではなく、世界が僕にコントロールされるのです。
ニセモノバンザイ!ニセモノバンザイ!
「よげん」は実現しました。
―
「あのネーミングはどこから来たんや?」
演劇のまねごとの会が終わった時に、担任の先生に聞かれました。
バレている。
バレているバレているバレている。
大人にはバレている。
そうか、これからは気をつけなければならないぞ。
自分よりレベルが低い奴らは騙せても、大人や自分より年齢が上のやつ、頭のいいやつには要注意。
「ああ、おじいちゃんと一緒に決めました。本とかマンガを見ながら」
「そうか」
危ない危ない。
でも、バレてても、相手はそれ以上突っ込めない。
先生は、小学校の先生だから、現代の子どもが何を観ているかを勉強しているんだ。だからバレたんだ。
大人だから知らないだろうと思ったけど、先生という立場なら知っている場合もあるんだ。あと子供の年齢も近いか。だったらなおさらだ。
だから先生にはバレたんだ。
でも、言い訳をそれ以上追求してこなかった。
大丈夫、何を聞かれても返す準備はできている。
―
それでも同級生、素人は楽に騙せます。
嘘をついてでも注目をということになりますが、騙し要素がないと「ニセモノに騙される大衆」という僕の中の「よげんの書」には当てはまりません。
ただ、僕はクラスで一人になりました。
いや、本当は一人ではありませんでした。
それはまた次のショックに繋がります。
ただただ、僕は、クラスの友だちを無くしました。
ああ、先生。ぼくはどうすればいいのですか?
つづく
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