他人を通して

他人を通してちらちら光る以外には、見られることを全く望まない人間がいる。そしてこれには深い思慮がある。 曙光 421

他人を通して自らを高めようとすること、それほど醜いものはありません。

例えば、学校か何かで、一番の成績を取った人が「僕が、僕が、僕が、一番なんだ!僕が一番なんだ!僕ってすごいよね?みんな僕をもっと褒めてよ!」と連呼している人がいたとすれば、その姿は美しく見えるでしょうか?

「ひとりでやっておけ」

そんなことを思うのではないでしょうか?

しかしそれと同じようなことをしている人は多くいます。

先の例ほど露骨ではありませんが、それと同じ構造を持ったことをしている様は日常でよくありふれています。

認めて欲しい、褒めて欲しいと言うようなやつです。これらは他人を通して、自尊心を高めるための踏み台として他人を利用するという感じです。己の恐怖心克服や快感のために他人からの承認や称賛を欲しているということにしかすぎません。

そして、まだ成績が一番だったというのならばマシですが、ひどい場合には親に買ってもらったもので自慢をする人もいます。

「買ってもらった」というのは物についてですが、親に与えてもらったというようなものであれば、生まれつきの顔もそれに該当します。

だからブスに優越感を感じている自称美人もやっていることは全く同じなのです。

他人の評価のパラドクス

叶うはよし、叶いたがるは悪しし」という言葉もありますが、なるのとなりたがるのは、本質的には異なるものです。

人に認められたい、人に評価されたいと強く願っている人ほど他人からは醜く映り、人からの評価など全然気にしていない人ほど、評価など欲していないのに評価されてしまいます。

逆説的ですが、モテたければ、モテたいと思わないほうが結果的に叶うという感じです。

では、特にモテたいと思っていないのにモテてしまう人は、どんな人でしょうか?

それはモテるためにロックをしている人ではなく、純粋にロックをしている人です。

モテるために野球をする人ではなく、純粋に野球に打ち込む人です。

医者の肩書があればモテるだろうと思っている人ではなく、純粋に医療を通じて人を楽にしてあげたいと仕事に打ち込んでいる人です。

そのような人は他人からの「すごいですね」という評価を欲しているでしょうか?

言ってもらってありがたいというくらいには思いますが、自らの行動の結果の出来を他人の言葉で評価するような人たちではありません。

ただ自らの高みにのみ置いているというところになりましょう。

尊厳・自尊心と承認欲求

他人を通して 曙光 421

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語のみ