「世界を動かしている」という実感

それが芸術的行為であれ、社会における権力の中の行動であれ、動機をたどると結局は「世界を動かしている」という実感欲しさに人は行動をしていると考えることができます。

その奥にはもちろん「世界をコントロールできるのだ」という、自分の意志の反映の確認という意図があり、そうしたものを求める根本は「世界が自分の意志とは別に動いている」ということに対する恐怖心です。

もちろんここで言う「世界」とは、客観的な世界とイコールではなく、この自我を通した世界、つまり自分の視点で自分が経験する世界です。

意志と表象と音楽

アルトゥール・ショーペンハウアーや初期のニーチェなどは、音楽の中に「表象としての世界」以外の世界を期待しました。

そんなことを念頭に置きながら音楽を聞いてみると、変な感覚になります。

「感染してしまうレベルのギターソロ」なんかを自分でコピーしてみた時、はたまた何気なく楽器を弾いたり、セッションなどをしている時、自分の頭にあるイメージが指を伝わり、楽器を伝わり、アンプを通してはっきりした音になり、その音が「この世界」を包むのです。

数人で行うセッションであれば、各人の頭の中のイメージが入り混じり、一つの世界を作っていくことになります。それは非言語の世界であり、言語で示すことのできないような領域の世界です。

そしてこれは、人と人とのコミュニケーションにおける「究極」ともとれる共同作業です。

環境的な制限、フレーズの元となる情報は、ある程度の制限があるのかもしれませんが、独奏であれば、自分の意志がダイレクトに世界に反映され、複数人の合奏であれば、リアルタイムで人と人の意志が組み合わさって新しい景色を作っているような光景です。

そこにあるのは、ダイレクトに「自分が見る世界を今作っている」という実感です。

音という次元に限定されますが、意志がそのまま世界に反映されるという実感がそこにあります。

もちろん日常の会話なども同じような構造を持っていますが、会話の場合は基本的に相手が必要なため、より一層多くの制限があります。

ゲームに他人を巻き込む人たち

音楽の場合は、先のような感じになりますが、「自分の意志と行為で世界が動く」という構造は社会生活の中で様々なパターンがあり、音楽ほど純化されたものはそんなに多くはありません。

そのような中で、自分の意志と行為で「世界が動いている」と実感するにあたって「ゲーム」もその一つになります。あくまで画面の中という情報の空間になりますが、その情報空間の中に高い臨場感を持てば、この五感というチャネルの現実的な物理世界よりも没入することができれば、そのゲームという世界の中で「世界を動かしている」という実感を得ることができます。

しかし、やはりおしっこがしたくなったら、現実的な五感の世界に戻らざるを得ませんし、電源を切ればその世界はひとまず消えます。

現実社会に働きかける人が欲する注目や権力

ということで、ゲームのような世界ではなく、現実社会の方に働きかけるタイプの人達もいます。

そうした人たちは、人の注目や人に対する権力を欲します。そして「自分の行為で人が動く」ことに快感を覚え、その快感を手放すまいと、人気や権力にしがみつくようになります。

よく「お金欲しさに」という風に捉えられたりしますが、本質的にはお金そのものや、消費行動による直接的な効用が欲しいわけではないのでしょう。

消費に限って言えば、生きていく上でそれほど大きな金額のお金は必要ありませんし、お金を使おうと思って大金をはたいても、金額と満足の比例、つまり「金額に応じた効用の向上」は途中からほとんど無くなってしまうからです。

恐怖心を忘れるための「実感」

そのツールがあることによる権力、つまり人を動かせる、世界をコントロールできるという「力」の方に取り憑かれているという感じになります。

脳筋経営者などが「もっと!もっと!」という風になるのもそんな感じなのでしょう。しかしそれは単に奥にある恐怖心克服として、ある方法論がその人にとっての「ひとつの成功法則」になっているにすぎないのです。

アイドルなら人の注目を浴びること、芸人なら人に笑いを与えること、政治家なら政治家、経営者なら経営者というポジションに立って大きな枠組みの組織を動かすということ、それぞれがある種その人の中の束の間の恐怖心を忘れるための「世界を動かしているという実感」に対する成功法則になっているという属性が含まれています。

そして、それが仮想空間のゲームの世界ではなく、現実社会の中の他人を巻き込むことになっているという感じです。

動機の要因はひとつではない

もちろん、何事も要因は複合的に入り混じっています。ということで、大半のケースでは、その「力」だけを意図しているわけではなく、別の側面での喜びなども含まれています。

単純に考えて「権力欲しさにやっている」とか「お金儲けのためにやっている」とか「自己顕示欲だ」とするわけにもいきません。「世界を動かしているという実感欲しさ」という側面もどこかしらくっついてきますが、動機の要因はひとつではないからです。

何をやるにしても他人との関係性で成り立っている社会においては人との関連性を切り離せないので、本質的な動機がどうあれそうしたことを推測されてしまうという属性からは逃れられません。

その人にとっての成功法則

例えばですが、「面白くない芸人」を見たとして、それが本質的に面白いのか面白くないのかはひとまず置いておいて、「それがその人にとっての成功法則なのだろう」と思うことがあります。

自分としては面白くない芸であっても、その人にとっては、かつてその芸をして喜んでくれる人がいた、そして「人が笑ってくれる」ということをもって「世界が動いた」ということが嬉しかった、という経験があるのだろうなぁ、ということです。

ただ、どのような分野においても本質的なレベルの高さというものはあります。それは具体的な一つの成功法則を繰り返すのではなく、数多のパターンを統合し本質を捉え洗練させていくという作業の先にあります。

ファッションとアート

若干脱線気味になりますが、そこで考えてみたいのがファッションとアートです。その最たる違いは、ファッションの直訳である「流行」から紐解くことができます。

ファッションとアートの根本的な違いは、時代を越えて人を感化させることができるかどうかという点になりますが、端的にファッションは、その時に社会における人々の心理の上で「現状に飽きている」というところに何を吐き出すかという点が大きな要因になるということです。

つまり、人の感化において「現状」が大きな比重を占めているということになります。

音楽においては、かつての日本の音楽教育で「四七(ヨナ)抜き音階」の楽曲ばかりが使用されていました。四度と七度を抜いた音階なので、5つの音しか使わないということになります(「ドレミファソラシ」の中の「ドレミソラ」しか使わないという感じです)。

その中で、海外から一般的な7つの音を使った長調や短調の楽曲が入ってくれば、それは驚きとなります。

つまり構造としては、四七抜き音階に飽きていたからこそ、一般的なスケールの音楽に驚きがあったということになります。

そして、そんな感じで通常の音階に飽きてくると、また四七抜き音階(ドレミソラ)や琉球音階(ドミファソシ)のような5つの音を使う「ペンタトニック系」のものが流行ったりするのです。

つまり何かがありふれてきたところに、異なるパターンのものを提案するという構造になっています。そして、それが一般化すれば、また別のものが出てくるのです。それが循環しリバイバルしていくという感じで、紐解けば「一般的になってくることによる飽き」に対する提示、再提示という構造しか無いということになります。これがファッションです。

そしてアートは、そうした社会的な状況、つまり何に飽きてきているか、ということに左右されない領域になるということになります。それは、それぞれの具体性を超えて統合された地点に立っているかどうかというところになります。

端的には、一度成功した体験に縛られずにいられるかがキーポイントとなるという感じです。

芸術分野において「二度売れる必要がある」というのはおそらくそうした面に要因があるのでしょう。

笑わせるより笑うほうがモテる

ということで、ある人が「世界をコントロールできるのだ」という実感のための成功法則に縛られていたとしましょう。

その人にとって、それは恐怖心の克服において非常に重要な機能を持っているのでしょうが、それに巻き込まれる必要はありません。

しかしながら、相手は恐怖心を持ち、世界を動かしているという実感を何かしらの方法で得たいと思っているとしましょう。

そうであるのなら、その実感を得れた時は嬉しくなるということになります。

ということで、「笑わせるより笑うほうがモテる」とか「話すより話を聞くほうがモテる」というのはそうした構造があるからだということになります。

非常に単純なことですが、モテるために「何かの能力や特異性が必要なのだ」ということを思っているうちは「自分が恐怖心を持ち、『世界を動かした』という実感を得たい側」になっているということになっています。

ということで余裕がありません。

話を聞くことは、相手に対して「相手の意志を動かした」という実感を与える

一方、「相手の話を興味を持って聞く」という行為は、相手に対して「自分の意志が相手の意志を動かした」と実感してもらい、安心を感じてもらうことに一役買います。

すなわち、話をしている側は、自分が話したことによって「相手の意志が動いた」と確認することで、安心を得るということになります。ということは、構造上、話を聞いている側は、相手に安心を与えたということにもなります。

もちろんそうしたことだけを理由に相手の話を聞くわけではありませんが、そうした属性を持っているということになります。

「やたらと自分語りをする人」、特に「自慢して相手を驚かせようとしている人」に余裕の無さを感じるのは、その奥にある恐怖心を感じるからです。

「話をして『相手を感心させること』で『世界を動かした』と感じ、安心したがっている」

ということがニオってくるという感じです。

一方で相手の話を聞いている方は、相手に安心を与えています。

しかし人の話を聞くという場合、自分が安心を感じている、つまり端的には余裕がなければ聞く気にもなりません。

ということで、お互いに自分の話の方を聞いてもらいたがっている状況にあっては、喧嘩が起こるのです。

といっても、そんなことで安心を確認する必要はありません。

相手を説得する必要もありません。

そうした形で安心を得ようとしている人たちを何とかしようとする必要もないのです。

本質的な安心、安穏は「世界を動かしているという実感」の中にあるのではないのですから。

Category:miscellaneous notes 雑記

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