ダナエーと黄金の神

それとは反対の傾向の方を一層よく説明しそうな状況にありながら、現在人々を犯罪者たらしめるこの極端な焦燥感は、どこから来るのか?なにしろ、この人は不正な秤を使用する。あの人は、高額な保険をつけたあとで、自分の家に放火する。 曙光 204 序盤

曙光の注釈によるとダナエーは、ギリシア神話の中のアルゴスの王アクリシオスの娘ということのようです。

ということで、そのあたりについては知らないので、黄金の神的なところから始めていきましょう。

資本主義について「洗脳だ」というようなことをたまに言っていますが、おそらくほとんどの人にはその意味が伝わっていないと思います。

で、資本主義ではないのなら共産主義か社会主義かというところを思い浮かべる人もいると思いますが、そうした事を考える時、根本的に二元論的になっていないかどうか再考してみてください。

「資本主義でないのなら」ということで、その他の選択肢である共産主義やその先の社会主義を思い浮かべているはずです。

その時点で、そうした「主義の内側」でしか考えられなくなっているというところを「洗脳されている」と思ってみてください。

相手に合わせなければと思うことも洗脳の結果

たまに外国、特に欧米圏の人と接する時に、何か宗教を信仰していないと信用されないという風潮があるからと言って、適当でもいいので何かを信仰していると言うと良いというようなことを英会話教師のような人が言う時がありますが、もう少し簡単に考えてみましょう。

「なぜ相手に合わせなければならないのか?」

ということです。

感覚で言えば相手がこちらに合わせてもいいわけですし、お互いにその点はノータッチでもいいはずです。

しかしながら、まるでそれが正しいかのように吹聴しているフシがあります。

「グローバルスタンダードが正しい」

という洗脳です。

信用してくれなくても、相手にしてくれなくても結構、という感じでもいいはずです。

しかし、「相手はそういう洗脳下にあるのだ」と相手を憐れみ、相手を激昂させることもあるまいと、「こだわりなき姿勢」として適当に言ってあげるというのでも構いません。

しかしながら英会話教師のような人が言うそれは、「絶対にそれが正しい」という風潮です。

欧米圏の人間が偉くて、相手に合わせることが正しいのだ、という一種の洗脳です。

と思うのですがいかがでしょう?

相手に合わせて国際人になってこそ正しく、それが人間の価値を高めるとでも思っています。

そして相手はこちらに合わせるということはしません。相手が「自分たちに合わせろ」というのを遠回しに価値観的な洗脳で強制しているにすぎないのです。

しかしながら、本当に正しいのは、相手の基準に関係なく自然体でいることです。時に可能であれば相手の洗脳を解くくらいの姿勢でいるのがベストです。

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争わず、相手に負けないこと

そう言えば、日本の武道などの基本的な理念は相手に負けないことであり、相手より上位に立って征服することではないということになっています。

一方、ヨーロッパの方の国々は古くから、他国を侵略して征服し、奴隷化してなんぼという事になっています。

そうした姿勢の違いを踏まえた上で、現代でもヨーロッパが資本主義や価値観の植え付け等々で隠れた支配をしているとでも思っておいたほうが賢明です。

それに塗れて洗脳の手の内で変に鼻高々に生きるか、それとも、そうしたことを知りつつ、相手を憐れむように「争わず、そして負けないこと」という日本古来からある生き方か、というのは似ているようで本質が全く異なります。

「支配してやる」と、変に高ぶっている相手の状態に力で抵抗するのではなく、一体となり導いていくという感じです。

もしそれができたなら、相手に負けることはありません。

力で相手に勝つこととは本質的に異なりますが、負けないことは勝つことよりも正しいのです。

ダナエーと黄金の神 曙光 204

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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