タイヤの細いチャリとロハスな人

おそらく昔に比べてかなり安価になったのでしょうか、ウェーイの矛先としてタイヤの細いチャリンコが街にたくさん現れるようになりました。

また、SNSが普及した影響からか、「ロハスな人」に生活スタイルを語られたり見せつけられることも多くなりました。

ということでタイヤの細いチャリとロハスな人についてでも書いていきましょう。

タイヤの細いチャリ

最近よくタイヤの細いチャリンコを見かけます。昔から土日の周山街道などではよく見かけましたが、彼らは本気なので別に微笑ましいだけなのですが、最近街中で見かけるそれは、非常に危険で、素早く取り締まるべきです。

ロードバイクと言われるようなタイプのやつなのでしょうか、詳しくは知りませんが、ママチャリよりもタイヤが細い自転車であり、そうしたタイヤの細いチャリに乗っている輩は、すばやく走っている自分を誉れに思っているようなフシがあります。

スピードを緩めたくないのか信号無視率が高い

ある程度勾配のある千本通りの下りなどでは、必ずといっていいほど信号を無視します。スピードを緩めたくないのでしょうか。たいてい無視しています。

「一生懸命がカッコいい!」ということなのでしょうか。良い子評価が高いとされる体育会系の割に横着であり、普段高評価を受けている分、よりタチが悪いという雰囲気があります。

一度も後ろを振り返ることなく急に車道側にそれてくる

それよりももっと問題なのは、車道を全速力で走っている最中、駐車中の車を避ける時に一度も後ろを振り返ることなく軽く避けてくることです。急に車道側にそれてきます。

その時も「一生懸命がカッコいい!」ということなのでしょうか、漕ぐ足は必死です。

車やバイクの運転はしないのか?

タイヤの細いチャリに乗る人は、普段車やバイクの運転をしないのでしょうか?

それとも、自転車だから許されるとでも思っているのでしょうか?

こういうタイプの人の神経がわかりません。こういう人はおそらくインターホンを鳴らされても返事をせずに出てくる人でしょう。挙句、返事がないので帰ると、「いたのに帰んなよ」とキレてくるようなタイプの人でしょう。

本体を壁に立てかけ、チェーンを肩から下げる

さらに寒気がするのが、スタンドをつけずに、コンビニなどの壁に立てかけることを「カッコイイ」と思っていることや、盗難防止用チェーンを肩から下げることを「オレ流行りの人」と思っていることです。不便なだけだと思うのですが、僕はこの違和感を大切にしています。

ただ一番不快な思いをされているのは、交通ルールをきちんと守り、昔からそういうチャリを愛している人ではないでしょうか。

ロハスな人

また、結局マーケティング用語になるのですが、ロハスな人もなんだか好感が持てません。一種の精神病のような気がします。LOHAS(lifestyles of health and sustainability)ということで、「持続的に健康的に生きるというライフスタイル」というようなもののようですが、こういうコンセプト的なものに縛られている限り精神病の範疇を出ることはありません。

ロハス(LOHAS)などという言葉は所詮マーケティング用語なので、いわばロハスな人たちはマーケッターたちの仕掛けに反応しているにすぎないのです。

「健康への執着や健康への不安感こそが体に悪い」と言っておきます。ロハスな人は、何でもかんでも物理的にデータを参照してより良くということを考えたりしていますが、体は物理的ですが、体を健康体に向かわせようという心が働いているから自然治癒力があるのだということを忘れないようにしましょう。

「病苦」病の苦しみ

さらに言うといくら頑張って「内側からキレイに」などと謳おうが、その前に不浄観ということをお知らせしたいですね。

本来的に不浄観は男のムラムラを抑制するためとか言われますが、それは後付けのような気がします。あまり意味や理由付けは考えずにただ、一度は思いを巡らせてみてもいいのではないでしょうか。

不浄観

体の内側数センチ、また自分の内臓などを思い浮かべるという類のものです。綺麗に見えるアイドルも内側には汚物と呼ばれる類を溜め込んでいるんだ、エラソーな先生と呼ばれる職種の人も股間には立派に溜め込んでいるんだ、というような点ですね。

モッガラーナ風に言えば、「皮膚で繋ぎ合わせた糞袋よ!」ということです。

ただ、それは本当に「汚い」ものなのか、ということも同時に考えてみてもいいでしょう。有害な細菌や物質の含有はもちろんあるものの、その有害性を度外視すれば、なぜそれを汚いと思ってしまうのかというような点ですね。

有害性で言えば、それ以上に有害なものは空気中にもたくさん飛んでいるどころか、ムラムラするような女性の肌にもたくさん付いています。その事実を一度直視して、様々な属性をつけてしまう心のシステムを捉えてみることです。

同様に、食事はたいてい死骸です。生き食いというものもたまにありますが、日常はほとんど死骸を食べています。一応植物は生きていますが、いくら「新鮮な肉」といっても酸化や細菌による腐食があまり進んでいないだけで、死骸であることは変わりありません。

そのようなことを食事中に言うなという類の人がいますが、それを言われて心が変化してしまうようなら、いわゆる「修行が足りない」ということになります。

内側には溜め込んでいるんだ、ということと、死骸を食べているんだということです。

それを「汚い」ものを避けるというようなコンセプトのもと「もっと内側からキレイに」というのは「アイツ」による騙しです。

結局ある市場のお客になっているという点も「うーん。。。」となりますが、さらに始末が悪いのは、その他の「ロハスでない人」を「汚いもの」として見てしまうところです。それは、非常に苦しくなる生き方ですね。

Category:miscellaneous notes 雑記

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