脳の中の血が一滴多すぎたり、少なすぎたりすると、われわれの人生は、いいようのないほど惨めになり、つらくなることがありうる。そこで、プロメテウスがそのはげ鷹に苦しんだより以上に、われわれはこの一滴に苦しまなければならない。しかしあの一滴が原因であることをわれわれが知りさえもしないときこそ、一番恐ろしいことになる。知りさえもしないで「悪魔」!とか「罪」!とかいうときである。 曙光 83
20歳の時、成人式あたりの時に思ったことがあります。それは、大人と責任というような属性のことです。
今となれば、法律上の責任くらいの意味合いだということを思っていますが、20歳を境に全て自分の責任になるというのは変だなぁと思いました。
19歳の時にハワイの外れの方に行った時に、「半分は社会の責任だ」という感覚がアメリカの方ではあると現地で聞いたからです(この世の果てまで)。
つまり、悪魔のような犯罪者も、見方によれば被害者であり、その人にすべての責任があるわけではないというような視点です。
当時僕の中ではカルチャーショックでした。
でもその感覚を聞いた直後には、「それはそうだなぁ」ということを思い始めました。そしてその延長で、この自我は外界からの情報で形成されているということに気付いたのです。
犯罪者を生むエネルギー
「半分は社会の責任だ」ということを思っているアメリカの方が人種差別を含め階級社会的なところはありますが、そうして誰かが自分に都合よく、そして自尊心を高めるために優劣を定めていくことで、自尊心の高まりとは逆方向に虐げられる側にマイナスのエネルギーが生じ、それが最後に限界領域に来た時に犯罪者を作るのではないかというようなことを思いました。
ある人は会社で学歴差別され、そのマイナスのエネルギーが子供に向けられ、その子供は好き好みもしない教育方針を押し付けられ、そうして溜まった鬱憤から学校の他の生徒をいじめ、いじめられた人は動物などにマイナスのエネルギーを向けるというような感じです。
その中で、ある人の中にマイナスのエネルギーがまとまった状態で溜まりきると、凶悪犯罪などが起こるのではないかと思っています。
何かしらの正当性を帯びたような自尊心争いの正負のエネルギーを誰かが最後には受け止め、限界に達した時にそれが形になって現れるという感じです。
宅間守や加藤智大が起こした事件はすごくわかりやすいですが、もっと複雑怪奇なものも、そしてもっと軽微なものも、そうしたエネルギーが呼び起こしていると考えることができます。
不平等なのに基準がある
環境や時代を考えれば、必ず不平等です。
家庭の所得水準も違いますし、地理的な条件も違います。所得だけでなく家族構成や家族の状況などの家庭環境によっても条件は大きく異なるはずです。
そして、時代の中で景気の変動があり同世代の人口や採用枠の数なども年々変化しているはずです。
その中で社会においては一定の尺度、一定の基準で人間は測られます。
年齢や学歴による就職に関する基準は、見方によれば人事部のコスト的な問題で足切りをしているともとれます。
そして、私的な法人に対して平等を求めるほうがおかしいと言えばおかしい、というのも正当性を持ちます。
ということで、問題となるのは、そうしたものに無駄な価値を与えるということです。同時に価値を与えることで、優越感をもたらし、自尊心の基準とすることです。
自慢も犯罪に加担している
そういうわけで世の中には、無駄に価値が与えられているものがたくさんあります。そして同一の条件の中でないにも関わらず、それで人を判断するという基準が出来上がっています。
自慢は犯罪と関係なさそうですが、そうして自尊心を高めようとすることは、見方によれば誰かの自尊心を奪い、マイナスのエネルギーを蓄積していくことに加担していると考えることもできます。
論理の飛躍に見えそうですが、僕は飛躍しているとは考えていません。
そして、普段特に問題視されないような「ほめる」というようなことも、場合によっては人を相対化し、正負のエネルギーを作っていくことになりかねないのです。
マイナスエネルギーの贖罪としての犯罪者
だから、そうした凶悪犯罪の被害者に責任があるわけではありませんが、「自分は関係がない、犯罪を犯した者だけが悪い」とするのは少し変なのです。
そういうわけで、「死刑」に関して、「税金で面倒を見るのはおかしい」という目線で肯定するのは、少し変だと思っています。
マイナスのエネルギーが集まりに集まり、死刑で死んでいく死刑囚は、見方によればなんだか贖罪をするイエス・キリストのようだなぁと思うことがあります。
そう考えると過労死で死んでいく人も同じようにイエス・キリストのようです。
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もちろん犯罪者や犯罪を肯定するということではありませんが、「その人だけが悪い」とするのは変だなぁと思っています。
そういうわけで、世の犯罪をゼロにしていくには、社会の全員が僻みでも何でも無く事あるごとに「それがどうした」と思うことです。
「それがどうした」ということに抵抗がなくなるまで、事あるごとに「それがどうした」と思い続けることです。
少なくとも自分自身はそう思い続けることです。
特に日本は「権威に弱い」という気質が強いとされています。
権威とされているものを無駄に権威だと思う事自体が差別なのです。
普段はマスコミが嫌いだと言いながら、テレビに取材されれば「嬉し恥ずかし」ではいけないのです。
家に総理大臣がやってきても、近所の人が町内の会報を持ってきた時と同じようなマインドでいることです。
あわれな人類! 曙光 83
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