今までの人生で何度か自然と食が進まないような時がありました。無理や我慢のような感覚は全くなく、また、「体調が悪く、食えない」というような感覚ではなく「特に要らない」というような感覚です。
そして、ふとした眠れない夜、よく散歩にでかけました。
こうした時はだいたい、鬱屈した身体が限界に近づき再生を図るときか、もしくは精神を含めて大きな変化があり、転機に差し掛かっているときかのいずれかです。
古い自分を食うような感覚
表現は変ですが、古い自分を食うような感覚です。
どれだけ当てになるものかはわかりませんが、軽く断食のようなことをすると、内臓は休まり、また、体の古い部分が再生の材料に使われるようです。
ただ、そこで停滞しているとそれを押し進めるエネルギーが足りません。
歩くことで生ずるエネルギー
なので、僕は「歩く」という行動をします。
これも個人差がありそうで、かつ、どこまでが正しいのかはわかりませんが、20分程度連続で歩くとβエンドルフィンやドーパミンが、そして40分程度歩くとセロトニンが出るようです。
こうしたものが再生を押し進める原動力となります。
また、ふくらはぎのポンプ機能が血液循環を高めます。
これにより、再生が加速していきます。
フラフラ感が不要な記録としての「体に溜まったデータ」を壊していく
一日一食程度でさらに歩くと結構フラフラになってきます。
しかしそのフラフラ感が古いものをぶち壊し、不要な記録としての「体に溜まったデータ」を壊していくといった感じがします。
不要な記憶による不要な緊張がもたらしたコリなどを再生の材料に使うような感覚です。
もちろん体質や体調などによって大きく取り扱いは変わると思いますが、個人的には数年に一度こうしたことが自然に起こります。
そうしたやや飢餓状態が数日続くと「ああ、肩コリを知らない人はこういう感覚なのか」というような経験をすることになります。
身は軽く半分宙に浮いているような感覚です。
だいたい一週間程度で終わりますが、途中からどんどん嗅覚などが研ぎ澄まされていきます。
状況に応じた良い働き
何となくやる気が出ないという程度であれば、逆に無理にでも歩くと、少しくらいのやる気が出たりします。
また、何となく眠れないという時も、多少歩くと自然な眠気が来たりします。
矛盾しているようですが、状況に応じた良い働きをするというような感じです。
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あまり食べずにさらに歩くとフラフラになりますが、その分雑念も浮かびません。さらに右足を踏み込む時は「右」、左足を踏み込む時は「左」とラベリングし、ヴィパッサナー的に歩くとより一層効果的です。
体の再生が自然と起こる
心身ともに鬱屈さが限界に来たときや、バージョンやモードを変化させざるを得ない転機が訪れた時、こうした体の再生が自然と起こることがあります。
そういえば、養子のうさぎが亡くなった後は、大峰山に行ったりしました(大峯山(大峰山・山上ヶ岳))。
あの時は、氷点下の登山ということもあり、二日、というよりほぼ一日で体のすべてが入れ替わったようになりました(この時は、食事はしっかりとしたものでしたが、運動量が激しく、吹き出る汗の量が半端ではありませんでした)。その後、一ヶ月半くらいは体がスイスイ動きました。
その手前には「愛する者への愛のために苦しむ」という愛別離苦としての多少なりの緊張がずっと続いていたため、体としても辛いものがあったのだと思います。
また、就職活動期に「一週間で6キロ減」という経験もしています(南風の風下で)。ほとんど何も食べていませんでしたが、体は軽く、たくさん動き回ることができました(そういう軽い状態でないと精神が持たなかったのかもしれません)。
そのような感じで、何か鬱屈したものの蓄積が限界が来たときや転機が訪れたりした時は、体を再生に向かわせるような働きが自然に起こったりするようです。
「意図的に再生させる」ということもできますが、こうしたものは体調との相談になります。「無理にするものではない」と思っています。
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