たいてい思考は言葉で行われていますし、意識の状態も普段使う言葉に大きく影響されるというのは本当のところですが、言葉にさえ左右されなくなる領域まで行ければ、言葉はもうこの心を縛ることはできません。
しかしながら、基本的には言葉によって意識は方向付けられています。ということで、言葉選びは結構重要だったりします。
言葉選びも大事ですし、何より「何に意識を向けるか」ということが結構大事だったりします。
否定的な言葉と肯定的な言葉
言葉を選ぶ時や意識を向ける時に、それが否定的な言葉を使うか、肯定的な言葉を使うかという面や、悪いものを叩くのか、良いものを称賛するのかという面で方向性が異なったりします。
一般的には、悪口を言ったり、揚げ足を取ることで相手を叩き、相対的に自分を高めるというような自尊心獲得ゲームが繰り広げられていますが、良きものを称賛するという意識の向け方の方が圧倒的に自分のためになります。
それは言葉によって意識が方向付けられているということにも関連しますし、何より意識を向けているものや、意識の向け方によって世界の見え方が変わってくるからです。
何に意識を向けるか
そう言えば、以前仕事の関係で出会った人が次のようなことを語っていました。
その方はマスコミ関係で仕事をしていて、さらに言えば長年記者をしていたそうです。
利権団体を糾弾するようなスクープを取ったりしていて、何度か表彰などもされたそうですが、ある時そうした仕事に疑問を持ったそうです。
「社会の悪に立ち向かうジャーナリズムにやりがいを感じていたりしつつも、新入社員時代の飛び込みとか、ご当地の特集をやっている時の方が楽しかったなぁ」
そんな感じでその人は記者を辞めて独立されたようです。
日常的な表現をすれば「社会を良くする」、もっと言えば「人々を幸せにする」というようなことをしようと思った場合、一つの方向性は、社会悪を潰していくということになります。
が、もうひとつの方向性として、良いものを持ち上げていく、という方向性もあります。
「悪の糾弾」と「良いものへの評価」
新聞や週刊誌などは時に、人の人生を潰してしまうようなことをしますが、それはそれで一種の抑止力となっているような機能があります。第四の権力と言われる所以の一つです。
例えば週刊誌で叩かれることによって、職業生命が絶たれるという可能性を感じるだけで、大っぴらには悪いことをしなくなるというような構造を持っています。
ということで、それはそれでいいのかもしれませんが、やはり「悪の糾弾」ということに意識が向いてしまうと、その本人はあまり気分が良いものではありません。
そういうわけで、より優れた方向性を模索するのなら、良いことにだけ意識を向け、より良いものだけを評価し、より良いものへの評価を高めることで、相対的に悪質なものが出る幕を無くしていくという方向もあります。
良いところを評価すること
極端な話をすれば、ブラック企業を叩くよりもホワイト企業を称賛するという感じです。そしてホワイト企業にしか人が集まらないということになれば、必然的にブラック企業は体力が弱まります。
どうせならそういう感じで過ごしましょう。
良きものを称賛するという意識の向け方の代表例としてはそのような感じですが、そこまで極端でなくとも、なるべく嫌な方を叩くという方向性ではなく、好きな方を応援するという感じのほうが、自分の気持ちも楽になりますし、結果的にその方が社会はより良い方向に向かっていきます。
ということで、最近では就職希望先に漠然とした「公務員」という概念がランクインしているそうです。
これを悲観的に見れば、ただ安定してホワイト体質の勤め先にしか興味がない、いわば夢のないような世の中になった、ということになりますが、一方で、公的機関くらい労働条件を遵守するような(それも一部では怪しいですが)勤め先でないと、そもそも求職者がやってこない、というプレッシャーを与えていることにもなります。
おそらく就職希望先として「公務員」と言っている人たちは、一部の人達を除いて公務員の仕事内容に惚れ惚れしているというよりも労働条件などを評価しており、それについて意識が向いているはずです。
実際の面接では口八丁手八丁で、相手が喜びそうなことを言う人がほとんどでしょうが、その裏にある本音を世間も理解していると思いますし、そうなると大企業を含め様々な企業にプレッシャーを与えることにもなります。
といっても、長期的に見ればそれでもいいのかもしれませんが、嫌なものは嫌だと認めなくてはなりません。
ただ、私事としてはなるべく良いものを評価する方に意識を向けていたほうが意識は爽快になるという感じです。
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