たしかなことは、最高の幸福と最低の不幸の間の空間の広さは、想像された物の助けを借りてはじめて作り出されたということである。 曙光 7 一部抜粋
最高の幸福を自己啓発ウェーイは「最幸」と書きます。それだけで新興宗教のような胡散臭さが拭えません。たしかなことは、最高の幸福は、群れてウェーイすることではありません。
幸福と不幸の間に空間があって、その間には多様な感情があるというように定義されそうですが、不幸な状態というのは、引用のとおり「想像された物の助け」によって生み出されています。
教養
「教養」という言葉がありますが、一般的に教養とは「たくさんの物事を知っていること」であるかのように言われます。
しかし、この言葉の意味はその先のほうが重要です。教養は、狭義にはたくさんの物事を知っているからこそ生まれる心の余裕や優しさのことをいいます。
ですので、TOEICを何点とったかは重要なことではなく、その知識がもたらす心の余裕が教養になるだけで、大学で一般教養をいくら勉強しても、学歴を自慢しているようでは教養にはなっていません。
一般的にも「知っているからこそ誰かの力になれる」というのが意義のあることであって、その知識などが誰の力にもならないのであれば、企業としてもそんなもので給与アップをねだられても困惑してしまうだけです。
心の余裕
しかし教養は、そんな誰かの力になるという領域すら飛び越えてこその教養です。いろんなことを知っているからこそ、大抵のことには眉一つ動かさないような心の余裕が本来的な意味です。
たとえば、経済学者が難しそうな理論をあれこれ言ったとことで、経済学慣れしていないうちは「なんだかすごい人が自分には理解できないようなことを言っている」と狼狽してしまいそうになりますが、相手の言っていることが理解できれば、当たり前のことを難しく言っているだけとわかるので、狼狽えることがなくなります。
学問はその隙間を埋めるのか
空間を学問が小さくするというのは、確かにこのように教養という視点から見れば正しそうですが、それで「心に余裕」ができるだけなら問題はなくとも、それに加えて「知識への固執」が生まれそうになります。
たいてい人が何かをすると、心にとって良い面と悪い面が生まれます。絶対的に良いものなどは本当に少数です。ここでいう悪い面とは、自分の心が何かにとらわれてしまうこと、何かの条件づけを行ってしまうことです。
学問や知識によって生まれた心の余裕の裏側に、その心の余裕が正しく安定するものであるようにという執著が生まれます。知識への固執によって視野は狭まり、反対意見に対する怒りなども生じるようになるかもしれません。
学問や知識で、ある程度の心の余裕は生まれるでしょう。しかし、限界はすぐにきます。アイツは元々持っているフィルターを学問によって外されかけた時に、すぐにその「学問」を次のフィルターに変換しようとします。そういう特性があることはあまり語られません。
空間感情の学び直し 曙光 7
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